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こんのうはちまんぐう

金王八幡宮の御由緒・歴史
東京都 渋谷駅

ご祭神《主》応神天皇
ご神体甲冑馬上八幡像
創建時代寛治6年(1092)
創始者源義家 河崎基家(澁谷家祖)
ご由緒

当八幡宮は、第七十三代堀河天皇の寛治六年正月十五日(1092)鎮座。桓武天皇の曾孫である高望王の後裔で秩父別当平武基は源頼信による平忠常の乱平定において功を立て、軍用八旒の旗のうち日月二旒をもって秩父妙見山に納め八幡宮と崇め奉った。武基の子武綱は、嫡子重家と共に後三年の役(1087)の源義家の軍に三百余騎を従え一番で参向し、仙北金澤の柵を攻略した。その大功により名を河崎土佐守基家と賜り武蔵谷盛庄を賜った。義家はこの勝利は基家の信奉する八幡神の加護なりと、基家が拝持する妙見山の月旗を乞い求め、この地に八幡宮を勧請した。
重家の代となり禁裏の賊を退治したことにより堀河天皇より澁谷の姓を賜り、当八幡宮を中心に館を構え居城とした。澁谷氏は代々当八幡宮を氏族の鎮守と崇めた。これが渋谷の発祥ともいわれ、現在も境内に渋谷城「砦の石」が保存されている。
当八幡宮は、「八幡宮」又は「澁谷八幡宮」と称していたが、金王丸の名声により、後に「金王八幡宮」と称されるようになった。
澁谷氏が武蔵谷盛庄七郷(渋谷、代々木、赤坂、飯倉、麻布、一ツ木、今井等)を領したので、当八幡宮は鎌倉街道(現 八幡通)大山道(現 青山通、道玄坂)を中心とする青山・渋谷の総鎮守として現在も数多の崇敬をあつめている。

金王丸(こんのうまる)
澁谷金王丸常光は、澁谷平三重家の子で、永治元年八月十五日(1141)生。
重家には子がなく夫婦で当八幡宮に祈願を重ねると、金剛夜叉明王が妻の胎内に宿る霊夢をみて立派な男子を授かった。そこで、その子に明王の上下二文字を戴き「金王丸」と名付けた。
金王丸十七歳の時、源義朝に従い保元の乱(1156)で大功を立て、その名を轟かせた。続く平治の乱(1159)で義朝は敗れ、東国に下る途中尾張国野間の長田忠致の謀叛により敢え無い最期を遂げた。金王丸は京に上り、常盤御前にこの暴挙を報じたのち渋谷で剃髪し、土佐坊昌俊と称して義朝の霊を弔った。(平治物語には、金王丸は出家し諸国を行脚して義朝の霊を弔った、とある。)
頼朝は、金王丸のいる当八幡宮に参籠し平家追討の祈願をし挙兵した。
壇ノ浦の戦いののち頼朝は義経に謀叛の疑いをかけ、これを打つよう土佐坊に命じた。土佐坊が断ることもできず、文治元年十月二十三日夜(1158)、百騎ばかりを率いて義経の館に討ち入り勇将らしい立派な最期を遂げた。
金王丸は、平治物語、近松戯曲、また土佐坊昌俊としては源平盛衰記、吾妻鏡、平家物語などにみえ、その武勇のほどが偲ばれる。

金王桜(渋谷区指定天然記念物)
金王桜は、長州緋桜という種類で、雄しべが花弁化し、一枝に一重と八重が入り混じって咲く珍しい桜。
当八幡宮の「社傳記」によれば、文治五年七月七日(1189)源頼朝が藤原泰衡退治の凱陣の折り、澁谷高重の館に立ち寄り当八幡宮に太刀「天國」を奉納された。その際、金王丸御影堂に親しく参られ、父義朝に仕えた金王丸の誠忠を偲び、その名を後世に残すべしと厳命、鎌倉亀ヶ谷の館にあった憂忘桜をこの地に移植させ「金王桜」と名付けたとされる。
また、江戸時代盛んに作られた地誌にも紹介され、江戸三名桜の一つに数えられた。金王桜は、現在に至るまで実生により育て植え継がれている。
傍らには松尾芭蕉の句碑も弟子たちにより建立されている。
しばらくは 花のうえなる月夜かな   はせを

御社殿(渋谷区指定有形文化財)
現在の社殿は、徳川二代将軍秀忠の世、慶長十七年(1612)に青山忠俊と春日局により
造営された。
竹千代(後の家光)九歳、弟国松(後の忠長)七歳の頃、三代将軍は国松であろうとの風説
が行われた。竹千代の乳母春日局と守役青山伯耆守忠俊はこれを憂い、伯耆守は氏神と信
仰していた当八幡宮に熱心に祈願をこめ、春日局もまた護摩料金八十両を奉納している。
その後、家光の具足始めの儀が行われることとなり、これ神明の加護と伯耆守は数多の材
木を、春日局は金百両を寄進し社殿を造営した。
この社殿は、権現造りで江戸初期の様式を現在にとどめ、都内でも貴重な建築の一つに数
えられる。近世の神社建築としてはあっさりした姿で、豪華ではあるが極めて優しげな彫
刻が各所に施されている。特に拝殿正面左右の窓のような狭間には獏と虎が彫られ、この
ような装飾はたいへん珍しい。獏は世の安寧、虎は正しいまつりごとへの祈りの心が込め
られている。

社殿の歴史 
寛治 6年(1092)源義家 八幡宮勧請 
建久 2年(1191)源頼朝 修理   
慶長17年(1612)春日局・青山忠俊 再建
宝暦年間(1751~63)信州上田藩松平忠順 修理
享和元年(1801)丹波篠山藩青山忠裕 修理   
天保 9年(1838)舜教 修理   
安政年間(1854~59)舜教 修理(安政大地震)
大正 6年(1917)屋根修理
大正10年(1921)大営繕
大正12年(1923)部分修理(関東大震災)
昭和38年(1963)大修理
昭和48年(1973)屋根修理(御鎮座880年事業)
昭和58年(1983)殿内塗り替え
平成 7年(1995)殿外塗り替え(御鎮座900年事業)

神門〔通称 赤門〕(渋谷区指定有形文化財)
神門の建立年代は明らかではないが、資料として「地子古跡寺社帳」の明和六年(1769)と、門の額裏面の享和元年(1801)の刻銘がある。
明和六年の資料には、「(前略)当社八幡宮門無之不用心ニ付、冠木門内法八尺、扉両開、左右壱間宛塀、屋根瓦葺、塀左右三間四尺宛之矢来(後略)」と記され、この時新設したことが窺えるが、現在の門と一部相違がみられる。
享和元年は、丹波篠山藩青山忠裕より金一五〇両の寄進があり建物の修理を広範囲でおこなっており、門の様式から見てもこれより時代を下ることはないと思われる。
額裏面刻銘
「渋谷東福寺四十一世 者法印義龍代 享和元年辛酉八月吉日 西條家士 成嶋伴蔵藤原和保 敬白」

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