てっぽうずいなりじんじゃ
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鐵砲洲稲荷神社ではいただけません
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鐵砲洲稲荷神社のお参りの記録(1回目)
投稿日:2021年05月19日(水)
参拝:2021年4月吉日
鐵砲洲の地は、徳川家康入府の頃は、既に鐵砲の形をした南北凡そ八丁の細長い川口の島であり、今の湊町や東部明石町の部分が之に相当します。寛永の頃は此処で大砲の射撃演習をしていたので、此の名が生まれたとも伝えられています。昔の海岸線は現在のものより遥かに奥まったものであって、八町堀の掘られたのが慶長十七年であり京橋あたりの土地生成が、天文の頃足利義輝の治世になっていますが、之等京橋地区一帯の土地生成の産土の神こそ、現在の鐵砲洲稲荷神社の「生成大神」であります。
遠く平安時代初期の人皇第五十四代仁明天皇の承和八年(西暦841年)に年来打続く凶作に数えられる所あって、此の土地の住民達が自らの産土の国魂神を祀り、万有の生命を生かし成し給う大御親生成の大神として、仰いでその神恩を感謝し奉り、日常の御守護を祈願致しました。所が此の御鎮座の地が、当時の東京湾の最も奥に位置していました為に、港として諸船舶の出入り繁く、霊験のあらたかなる神徳と相まって当然の結果として船乗人の崇敬が頗る厚くなりました。その後埋立が進行して現在の京橋のあたりへ御遷座となり、更に室町時代末期の大永年中に氏子崇敬者達の願望によって又新しい海岸へ遷座し奉って八町堀稲荷神社と称しました。今の新京橋の近くであります。所が更にその後年にも埋立が進行して海岸は東方へ移りましたので、寛永元年には南八町堀地続きとなった鐵砲洲に生成大神を御遷座申し上げ、従来から鐵砲洲御鎮座の八幡神社を摂社とし、以って今日の鐵砲洲稲荷神社の基礎を築かれました。此の時代を通じて江戸で消費する米・塩・薪炭を始め、大抵の物資は悉く此の鐵砲洲の港へ入ってきました為に、大江戸の海の玄関に位置する此の鐵砲洲に御鎮座のいなり大神は、船員達の海上守護の神としても崇敬されました。港が横浜や芝浦に移転してしまった現在でもなお、特殊神事・冬至開運祈願祭に授与する「金銀富貴」の神札等は、全国的に篤く崇敬されて、諸諸方々の人々から拝載されています。抑も此の神社は、此の土地の氏子達は勿論のこと、全人類をして悉く「富み且つ貴からしめたい」との御神慮に基くものであります。
遠く平安時代初期の人皇第五十四代仁明天皇の承和八年(西暦841年)に年来打続く凶作に数えられる所あって、此の土地の住民達が自らの産土の国魂神を祀り、万有の生命を生かし成し給う大御親生成の大神として、仰いでその神恩を感謝し奉り、日常の御守護を祈願致しました。所が此の御鎮座の地が、当時の東京湾の最も奥に位置していました為に、港として諸船舶の出入り繁く、霊験のあらたかなる神徳と相まって当然の結果として船乗人の崇敬が頗る厚くなりました。その後埋立が進行して現在の京橋のあたりへ御遷座となり、更に室町時代末期の大永年中に氏子崇敬者達の願望によって又新しい海岸へ遷座し奉って八町堀稲荷神社と称しました。今の新京橋の近くであります。所が更にその後年にも埋立が進行して海岸は東方へ移りましたので、寛永元年には南八町堀地続きとなった鐵砲洲に生成大神を御遷座申し上げ、従来から鐵砲洲御鎮座の八幡神社を摂社とし、以って今日の鐵砲洲稲荷神社の基礎を築かれました。此の時代を通じて江戸で消費する米・塩・薪炭を始め、大抵の物資は悉く此の鐵砲洲の港へ入ってきました為に、大江戸の海の玄関に位置する此の鐵砲洲に御鎮座のいなり大神は、船員達の海上守護の神としても崇敬されました。港が横浜や芝浦に移転してしまった現在でもなお、特殊神事・冬至開運祈願祭に授与する「金銀富貴」の神札等は、全国的に篤く崇敬されて、諸諸方々の人々から拝載されています。抑も此の神社は、此の土地の氏子達は勿論のこと、全人類をして悉く「富み且つ貴からしめたい」との御神慮に基くものであります。
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