あかぎじんじゃ
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楽しみ方赤城神社のお参りの記録(1回目)
投稿日:2025年11月05日(水) 01時25分09秒
参拝:2025年11月吉日
鎌倉時代の正安2年(1300年)、上野国赤城山の麓から牛込に移住した大胡彦太郎重治により、牛込早稲田の田島村に創建されたと伝わる。文安元年(1444年)には、大般若経が奉納された。 寛正元年(1460年)、江戸城を築城した太田道灌により牛込台に移された。その後、弘治元年(1555年)、大胡宮内少輔により現在地に移される。江戸時代には徳川幕府によって江戸大社の一つとされ、牛込の鎮守として信仰を集めた。
地下鉄の駅から地上の目的地に行く場合には出口を間違えないこと!やっと勉強してわかってきたところだ。パソコンで赤城神社と神楽坂駅の位置を見ると遠いような気がしたのだが、なんと!駅の案内に従って行くと、駅の目の前であった。
場所も便利であるし、有名な神社なので参拝客も多かった。今の時期は七五三祝いで家族連れで賑わっていた。
神社自体は小さいのだが、カフェもあり、神楽坂駅前ということでオシャレである。マンションの住人の車が地下駐車場に入る為、気を付けた方がいいかもしれない。太田道灌が江戸の地を選んだころのこのあたりは、 いわば勢力を持った領主のいない荒涼寂寞たる土地だったようです。 しかし、道灌は、そのような茫漠たる江戸の地が地勢、形勝に優ると判断し、 長禄元年(1457)ここに江戸城を築城しました。 そして、この城を拠点として南関東一帯を治めるようになりました。 しかし、道灌はなぜこのような荒れた地を選んだのでしょうか、 また、ここが地勢、形勝に優れていると判断した理由はどこにあったのでしょうか。 今でもその地名が残っていますが、当時このあたりには 千代田村、宝田村、祝田村と呼ばれる小さな村がありました。 それらの村が後々まで繁栄する縁起のいい名前であったことや、 このあたりから眺める富士や海辺が絶景であったことを道灌は気に入っていたようです。 もちろんそればかりではありません。江戸は奥羽へ通ずる要衝の地であること、 荒川の存在によって水運の便に恵まれ、川越と江戸とを結ぶ重要な交通路が確保できること、 さらに荒川は敵の侵入を防ぐ格好の自然の要害であることなどを見抜いていたようです。実際、時代は下って、江戸(徳川時代の)となり、東京となり、しかも天皇が住む日本最大の都市になったのですから、 先見の明があったというか、100年の計を考えていたと言うか、道灌の英断と言わざるを得ません。 道灌は江戸城を築きましたが、 精勝軒 と呼ばれる櫓も作りました。 この櫓は、現在の皇居の 富士見櫓 のある場所に作られました。 道灌は、この櫓から富士山や海の素晴らし眺望を楽しんでいたのです。 道灌が精勝軒で詠んだつぎのような句があります。
わが庵は 松原つづき 海近く 富士の高嶺を 軒端にぞ見る (東京・江戸の話)
麻布台ヒルズだ、六本木ヒルズだ、ビットバレー(渋谷のIT企業が集まる場所)だ、高い建物を観ながら、東京都がずっと昔からこの国の首都として存在しているような気がするのだが、実際には太田道灌が来るまでは荒れ果てていたのだ。荒れ果てた土地の草を刈ってから築城をしている。太田道灌という人の先を読む目が素晴らしいとしか言いようがない。
気が付いたこととしては、この神楽坂界隈。神社の末社、お寺の隅にある神社。など出世稲荷が多いのだ。これも何か関係があるのだろうか?
江戸の夢 銀杏の香に 都心かな
地下鉄の駅から地上の目的地に行く場合には出口を間違えないこと!やっと勉強してわかってきたところだ。パソコンで赤城神社と神楽坂駅の位置を見ると遠いような気がしたのだが、なんと!駅の案内に従って行くと、駅の目の前であった。
場所も便利であるし、有名な神社なので参拝客も多かった。今の時期は七五三祝いで家族連れで賑わっていた。
神社自体は小さいのだが、カフェもあり、神楽坂駅前ということでオシャレである。マンションの住人の車が地下駐車場に入る為、気を付けた方がいいかもしれない。太田道灌が江戸の地を選んだころのこのあたりは、 いわば勢力を持った領主のいない荒涼寂寞たる土地だったようです。 しかし、道灌は、そのような茫漠たる江戸の地が地勢、形勝に優ると判断し、 長禄元年(1457)ここに江戸城を築城しました。 そして、この城を拠点として南関東一帯を治めるようになりました。 しかし、道灌はなぜこのような荒れた地を選んだのでしょうか、 また、ここが地勢、形勝に優れていると判断した理由はどこにあったのでしょうか。 今でもその地名が残っていますが、当時このあたりには 千代田村、宝田村、祝田村と呼ばれる小さな村がありました。 それらの村が後々まで繁栄する縁起のいい名前であったことや、 このあたりから眺める富士や海辺が絶景であったことを道灌は気に入っていたようです。 もちろんそればかりではありません。江戸は奥羽へ通ずる要衝の地であること、 荒川の存在によって水運の便に恵まれ、川越と江戸とを結ぶ重要な交通路が確保できること、 さらに荒川は敵の侵入を防ぐ格好の自然の要害であることなどを見抜いていたようです。実際、時代は下って、江戸(徳川時代の)となり、東京となり、しかも天皇が住む日本最大の都市になったのですから、 先見の明があったというか、100年の計を考えていたと言うか、道灌の英断と言わざるを得ません。 道灌は江戸城を築きましたが、 精勝軒 と呼ばれる櫓も作りました。 この櫓は、現在の皇居の 富士見櫓 のある場所に作られました。 道灌は、この櫓から富士山や海の素晴らし眺望を楽しんでいたのです。 道灌が精勝軒で詠んだつぎのような句があります。
わが庵は 松原つづき 海近く 富士の高嶺を 軒端にぞ見る (東京・江戸の話)
麻布台ヒルズだ、六本木ヒルズだ、ビットバレー(渋谷のIT企業が集まる場所)だ、高い建物を観ながら、東京都がずっと昔からこの国の首都として存在しているような気がするのだが、実際には太田道灌が来るまでは荒れ果てていたのだ。荒れ果てた土地の草を刈ってから築城をしている。太田道灌という人の先を読む目が素晴らしいとしか言いようがない。
気が付いたこととしては、この神楽坂界隈。神社の末社、お寺の隅にある神社。など出世稲荷が多いのだ。これも何か関係があるのだろうか?
江戸の夢 銀杏の香に 都心かな
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かおり1683投稿
誰も行かないような静かなお寺、神社が好きです。 地元の方、神社の所有者(小さい神社、祠は私有地が多い)に現地で話を聴き、ネットにない情報をホトカミあげてます。 しかあし! 私の投稿を読む人は1...もっと読む
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