いいくらくまのじんじゃ
飯倉熊野神社の編集履歴
ご由緒
本社は、御遷座以来幾多の回禄に遭い、由緒沿革など記載の古書及び宝物等は、悉く焼失され創立年代など詳細は不明ですが、当社の伝えに依ると元正天皇御代(680-748)、養老年間(717-724)芝浦海辺の地に鎮座ありと。また文明年間(1469-1487)太田道灌(持資)により再建され、併せて数多の品物を寄進されたとある。御府内備考の丁亥書によれば慶祚阿闇梨が勧請とあり。慶祚は九世紀の人でありますので、如何に旧い由緒を有する御社か分かります。又江戸志、江戸名所図絵には、「養老年中に芝浜に勧請後この所に遷す云々」とあり、凡そ南北朝時代には、現今の地に鎮座せるものと推定されます。諸説更に研究を進めなければなりませんが、その御鎮座は、極めて古い時代であることは間違い御座いません。そもそも当御社は、武家の崇敬殊に厚く仕官の際には当社に詣で牛王神符を拝受されておりました。
明治五年村社(旧社格)に列せられました。昭和二十年五月二十五日、大東亜戦争、米軍B29爆撃により、御社殿(元禄十六年以後建立)、神楽殿(安政二年建立)社務所(大正十二年建立)及び多数の宝物類を悉く焼失。以後昭和二十七年七月まで仮本殿にて奉齋しておりました。その後、二の橋、小野工業所より本殿が寄進(昭和二十七年六月・間口一間・奥行一間半、総欅瓦葺)され、同年八月遷座祭を行いました。昭和三十二年七月飯倉小学校講堂建設の為、隣接境内地を譲渡し、その基金を主に氏子各氏の寄付を仰ぎ、本殿・社務所を造営、昭和三十三年十月遷座。昭和四十年七月、東京都路面拡張に伴い境内地の前面を削られ、その際、玉垣等改築、鳥居・社号標を建立し十月慶奉祝祭を行い、平成二十一年七月より社務所ビルの建築を開始し、平成二十二年五月竣工を向え、現在の境内模様となりました。
編集前:本社は、御遷座以来幾多の回禄に遭い、由緒沿革など記載の古書及び宝物等は、悉く焼失され創立年代など詳細は不明ですが、当社の伝えに依ると元正天皇御代(680-748)、養老年間(717-724)芝浦海辺の地に鎮座ありと。また文明年間(1469-1487)太田道灌(持資)により再建され、併せて数多の品物を寄進されたとある。御府内備考の丁亥書によれば慶祚阿闇梨が勧請とあり。慶祚は九世紀の人でありますので、如何に旧い由緒を有する御社か分かります。又江戸志、江戸名所図絵には、「養老年中に芝浜に勧請後この所に遷す云々」とあり、凡そ南北朝時代には、現今の地に鎮座せるものと推定されます。諸説更に研究を進めなければなりませんが、その御鎮座は、極めて古い時代であることは間違い御座いません。そもそも当御社は、武家の崇敬殊に厚く仕官の際には当社に詣で牛王神符を拝受されておりました。
明治五年村社(旧社格)に列せられました。昭和二十年五月二十五日、大東亜戦争、米軍B29爆撃により、御社殿(元禄十六年以後建立)、神楽殿(安政二年建立)社務所(大正十二年建立)及び多数の宝物類を悉く焼失。以後昭和二十七年七月まで仮本殿にて奉齋しておりました。その後、二の橋、小野工業所より本殿が寄進(昭和二十七年六月・間口一間・奥行一間半、総欅瓦葺)され、同年八月遷座祭を行いました。昭和三十二年七月飯倉小学校講堂建設の為、隣接境内地を譲渡し、その基金を主に氏子各氏の寄付を仰ぎ、本殿・社務所を造営、昭和三十三年十月遷座。昭和四十年七月、東京都路面拡張に伴い境内地の前面を削られ、その際、玉垣等改築、鳥居・社号標を建立し十月慶奉祝祭を行い、平成二十一年七月より社務所ビルの建築を開始し、平成二十二年五月竣工を向え、現在の境内模様となりました。
アクセス
東京メトロ日比谷線神谷町駅より徒歩7分
都営大江戸線赤羽橋駅より徒歩7分
iikurakumano