ゆしませいどう
湯島聖堂のお参りの記録一覧(2ページ目)
"檸檬"
あの日湯島聖堂の白い石の階段に腰掛けて♪
昨日高校の友人からLINEが来ました。
懐かしい友、近況を報告し合い太宰府天満宮でさだまさしの飛梅の歌詞の通りお参りして来たと。
どんな歌だったかな。懐かしい。
ふと頭によぎった湯島聖堂の懐かしいさはこれかも。忘れていた記憶!檸檬。
なんと投稿するつもりの日に私の記憶を呼び起こしてくれました。
新しいく塗り替えられた聖橋、赤い色と檸檬色の電車もデザインは変わってしまったけどね。
湯島聖堂の白い階段を登ります
重厚な黒い扉の向こうは別世界
今日は扉が閉まってます
孔子像
薄暗い中に立っているので少し怖いかも
表門から帰ります
お隣の建物で御朱印頂きます。
中はレトロな感じです。キョロキョロしてしまいました👀
📿our video
https://youtu.be/ZSGnO_NZaLA?si=Gd4I5I1rSIEyxZ5P
In 1632, Tokugawa Yoshinao, the 9th son of Tokugawa Ieyasu and daimyō of Owari Domain was granted permission to build an academy in Edo for the study and propagation of Confucianism. The first structure, the Sensei-den (先聖殿), constructed by the neo-Confucian scholar Hayashi Razan (1583–1657) in his grounds at Shinobu-ga-oka (now in Ueno Park). Under succeeding generations of Tokugawa shoguns and under the leadership of the Hayashi clan, Japanese Neo-Confucianism, particularly as developed in the teachings of Zhu Xi became the official orthodoxy and basis of the political philosophy of the Tokugawa shogunate.
The fifth shogun, Tokugawa Tsunayoshi, moved the building to its present site in 1691, where it became the Taiseiden (大成殿) of Yushima Seidō. The Hayashi school of Confucianism moved at the same time, and after the Kansei Edict solidified the position of neo-Confucianism the official philosophy of Japan, the school became a state-sponsored academy in 1797, the most important school of this kind in the country for the sons of hatamoto and many of the sons of various daimyo. The school was known as the Shōhei-zaka Gakumonjo (昌平坂学問所) or Shōheikō (昌平黌), after the supposed birthplace area of Confucius (昌平, Shōhei in Japanese). The rector of Shoheikō was for all intents and purposes at the head of the educational system in Edo. The academy covered a much larger area than the current grounds of the temple, including where the modern Tokyo Medical and Dental University stands. In addition to lectures at the academy, ceremonies were held in spring and autumn at the adjacent Confucian temple.
In 1871, after the Meiji Restoration, Neo-Confucianism fell from official favor and the academy was closed, although it is considered the direct predecessor of the Tokyo Imperial University. The Tokyo Medical and Dental University still occupies part of the grounds. In 1872, Japan's first teachers college was built on the site of the academy. Part of the grounds became the site of Japan's first museum, which was later relocated to Ueno to become the Tokyo National Museum. The country's first library, the predecessor of the National Diet Library was also constructed on the grounds. The grounds became a National Historic Site in 1922.[2] The surviving Edo period structures were all destroyed in the 1923 Great Kanto Earthquake. The current Yushima Seidō building was designed by Itō Chūta and was completed in 1935. The opening ceremony for the new building was attended by representatives of both the Republic of China and Manchukuo.
文京区湯島にある孔子廟。
儒教を熱心に学んでいた五代将軍徳川綱吉が上野にあった幕府儒学者林羅山の邸宅の孔子廟を現在の場所へと移し大きな孔子廟として新たに建てたのが始まり。江戸時代は学問所としても名高く一橋慶喜(後の十五代将軍徳川慶喜)の家臣平岡円四郎もこの場所で学んだそうです。
北海道で孔子廟を見ることはほとんどないのでこの様な立派な建築物を見られるのは大変嬉しいです。大成殿や門、境内の壁までどれも初めて見るものばかりでした。
神社やお寺ではありませんが御朱印を頂くことができます。
湯島聖堂すぐ傍の神田川にはアニメ映画『すずめの戸締まり』で一躍聖地として有名になった聖橋があります。
大成殿
境内
杏壇門
水屋
入徳門
孔子像
聖橋
聖橋から見た神田川と東京メトロ丸ノ内線
徳川五代将軍綱吉は儒学の振興を図るため、元禄 3年(1690)湯島の地に聖堂を創建して上野忍岡の林家私邸にあった廟殿と林家の家塾をここに移しました。これが湯島聖堂の始まりです。その後、およそ100年を経た寛政9年(1797)幕府直轄学校として、世に名高い「昌平坂学問所(通称『昌平校』)」を開設しました。
~ホームページより抜粋~
神田明神の帰りに立ち寄りました。ここが当時の最高学府かと思うと身が引き締まります。
恥ずかしながら、神社or寺院のどちらの御朱印帳に書き入れてもらうのか分からず、スタッフの方にお尋ねしました。「どちらかといえば神社です」との回答。悩ましい質問で申し訳ございませんでした。
案内板
入徳門
宝永元年(1704)建造
杏壇門
杏壇とは、山東省曲阜にある孔子の教授堂の遺址のこと。
大成殿
大成とは、孔子廟の正殿の名称
東回廊
西回廊
孔子銅像
昭和50年(1975)中華民国台北市のライオンズクラブからの寄贈
仰高門
昭和10年(1935)4月竣工
案内書
御朱印待ちの預り証
御朱印(直書き)
妻恋神社様、湯島天神様、神田神社様とお参りをして湯島周辺最後は湯島聖堂様。
こちらは前回、参拝に来たときに境内で気功をしていたので中に入らず門の所で参拝しただけだったので今回また行ってみました😊
【湯島聖堂】
徳川五代将軍綱吉は儒学の振興を図るため、元禄3年(1690年)湯島の地に聖堂を創建して上野忍岡の林家私邸にあった廟殿と林家の家塾をここに移しました。これが現在の湯島聖堂の始まりです。その後、およそ100年を経た寛政9年(1797年)幕府直轄学校として、世に名高い「昌平坂学問所(通称『昌平校』)」を開設しました。
明治維新を迎えると聖堂•学問所は新政府の所管するところとなり、当初、学問所は大学校•大学と改称されながら存置されましたが、明治4年(1871年)これを廃して文部省が置かれることとなり、林羅山以来240年、学問所となってからは75年の儒学の講筵は、ここにその歴史を閉じた次第です。ついでこの年わが国最初の博物館(現在の東京国立博物館)が置かれ、翌5年(1872年)には東京師範学校、わが国初の図書館である書籍館が置かれ、7年(1874年)には東京女子師範学校が設置され、両校はそれぞれ明治19年(1886年)、23年(1890年)高等師範学校に昇格したのち、現在の筑波大学、お茶の水女子大学へと発展してまいりました。このように、湯島聖堂は維新の一大変革に当たっても学問所としての伝統を受け継ぎ、近代教育発祥の地としての栄誉を担いました。
大正11年(1922年)湯島聖堂は国の史跡に指定されましたが、翌12年(1923年)関東大震災が起こり、わずかに入徳門と水屋を残し、すべてを焼失いたしました。この復興は斯文会が中心となり、昭和10年(1935年)工学博士東京帝国大学伊東忠太教授の設計と㈱大林組の施工により、寛政時代の旧制を模し、鉄筋コンクリート造りで再建を果たしました。この建物が現在の湯島聖堂で、昭和61年度(1986年)から文化庁による保存修理工事が、奇しくも再び(株)大林組の施工で行われ、平成5年(1993年)三月竣工いたしました。
ー湯島聖堂HPよりー
☆入徳門(にゅうとくもん)☆
木造、平家建。切妻造り。延面積14.16m2
宝永元年(1704年)建造。
入徳門-入徳とは、朱熹の「大学章句序」「子程子曰、大学、孔子之遺書而初学入徳之門也。」による。上野忍ヶ岡の林家の先聖殿創建時にも入徳門有り。曲阜の孔子廟には無い。江戸官学•朱子学の影響か。聖堂内、唯一の木造建造物。
☆杏壇門(きょうだんもん)☆
間口20メートル、奥行4.7メートル、入母屋造り。
杏壇門-杏壇とは、山東省曲阜にある孔子の教授堂の遺址のこと。宋の乾興のとき、大殿(大成殿)を後方に移し、教授堂(講堂)の跡地を瓦敷きにして壇(高台)とし、周囲に杏を植え、金の党懐英が「杏壇二字碑」を建立。のちそこに門扉が設けられ、杏壇門の名称が付けられた。
☆大成殿(たいせいでん)☆
間口20メートル、奥行14.2メートル、高さ14.6メートル、入母屋造り。
大成とは、孔子廟の正殿の名称。
宋(北宋)の仁宗のとき命名。
「孟子」万章下「孔子聖之時者也、孔子之謂集大成、集大成也者、金聲玉振之也。」に基づく。
殿内、中央の神龕(厨子)に孔子像。左右には四配として孟子•顔子•曽子•子思の四賢人を祀る。
額-伏見宮博恭王の筆(※元々は徳川綱吉の筆による)
※博恭王(ひろやすおう 1875-1946)
明治から昭和時代前期の皇族、海軍軍人。斯文会初代総裁。
海軍将校としてドイツ海軍大学校を卒業後、艦隊勤務に就く。日露戦争時には戦艦三笠分隊長として出征し、黄海海戦で負傷。
のちにイギリスに中佐として駐在したあと、戦艦朝日•巡洋艦伊吹の艦長を経て大正2年将官に進む。
海軍大学校長、艦隊の司令官•司令長官を歴任して11年大将となり、東郷平八郎と並んで日本海軍の二大長老の地位に立つ。
昭和7年海軍軍令部長ついで元帥となり、海軍軍令部の改編により軍令部総長となって昭和16年4月まで務める。
☆仰高門(ぎょうこうもん)☆
鉄筋コンクリート造。平家建。切妻造り。
延面積10.73m2、昭和10年(1935年)4月竣工。
仰高門-仰高とは、「論語」子罕第九「顔淵喟然歎曰、仰之彌高、鑽之彌堅。」による。
曲阜の孔子廟では、西方にある。一般見学者用の入り口になる門。
上野林家の先聖殿創建時には無い。元禄3年、湯島移築の際には見える。
入徳門から杏壇門へ続く参道の梅
湯島天神様よりこちらの方が咲いていました😊
今日も癒しの空間へ✨
神社?寺社?に癒されるだけでなく、植物にも癒しパワーを頂き、なんだか元気になったかもです😁
私的には初めて見る手水舎に、ふふふっです✨
友人の後姿。
着物姿が素敵です✨
手水舎。色合いが素敵✨
手水舎。石部分?にお水が溜まると、下に落ちてきたお水で洗えるとのこと。
通りすがりの近所のおじさまが教えてくれました✨
本殿近くの手水舎。柄杓で上の容器に水を注ぎ、溜まると”ざぱぁ”っと。あっ!手を洗うの忘れてしまいました😅
最新の限定御朱印情報が届く!
御朱印メルマガを受け取ろう
利用開始をもって利用規約・プライバシーポリシーに
同意したものとみなします。
ホトカミで困ったこと、不具合のご報告はこちらから
お問い合わせ
5
0