あなもりいなりじんじゃ
東京羽田 穴守稲荷神社の御由緒・歴史
ご祭神 | 豊受姫命 | |
---|---|---|
創建時代 | 文化年間から天保年間頃 | |
創始者 | 鈴木彌五右衛門 | |
ご由緒 | 羽田の地は古くから漁師町として栄えてきた場所でした。現在の羽田空港に当たる場所は、要島と呼ばれ、江戸時代中期から埋め立てが進められ、新田開発が行われてきました。しかし、場所柄東京湾の高潮や多摩川の氾濫による水害に長い間悩まされてきました。やがて江戸時代後期(文化文政期)に堤防の守り神として、稲荷大神を小さな祠に祀ったところ、その後は全く水害に遭わなくなり、一帯は良質な田園地帯となりました。そこで「風波が堤防に作った穴の害より、田畑を守り給ふ稲荷大神」という意味から、改めてその祠に穴守稲荷大神という御名を捧げました。これが穴守稲荷神社の始まりです。 明治以降は、堤防から現在の羽田空港B滑走路南端の滑走路番号付近に遷座し、東京や横浜の稲荷信仰の中心地として「関東一流祠」とも称され、関東近辺のみならず、日本全国更には台湾やハワイ、アメリカ本土にまで講社や分社が創られる程に崇敬を集めました。当時「ねがひごと かならずかなふ 穴守の いなりの神よ いかに尊き」という和歌が詠まれたり、古くから伝わる民謡の羽田節の一節にも「羽田ではやる お穴さま 朝参り 晩には 利益授かる」と残されている事からも伺えます。
しかし、終戦後の昭和20年(1945年)9月21日、東京飛行場を軍事基地として拡張する為、連合国軍より、氏子地域であった現在の羽田空港一・二丁目に相当する羽田穴守町・羽田江戸見町・羽田鈴木町の三か町内約1200世帯、約3000名の氏子共々48時間以内の強制退去命令が下されました。
その後、羽田地域は空港城下町として栄え、神社も多くの崇敬者のご支援によって復興を果たしました。また、現在の羽田空港に当たる一帯の守り神であった故実から、空港関係における安全祈願の神社として、航空関係者や旅行者から崇敬を得ており、旧羽田空港ターミナルビル内には、羽田航空神社とならんで穴守稲荷の分社が祀られていました。現在は空港内に祀られていた「穴守稲荷分社」は「航空稲荷」として神社境内に、そして「羽田航空神社」は第1ターミナルビル内へと遷座し、いずれも今に至るまで穴守稲荷の神職によって神事が執り行われています。 令和2年(2020年)春には、大規模な境内整備工事が竣工し、境内の様子が一新され、総本宮である伏見の御山を模した稲荷山や空港にあった大水瓶で作られた東京随一の大きさを誇る水琴窟が新たに完成しました。
こうして苦難の歴史を歩みつつも、現在は東京を代表する稲荷神社として、稲荷信仰を集めると同時に、羽田空港関係の航空業界・物流業界・建設業界・宿泊業界等からも、広く崇敬を集めています。 | |
歴史 | 由緒[編集] 「鈴木新田 (大田区)」、「羽田町」、「羽田空港 (大田区)」、「東京国際空港」、および「京急空港線」も参照 創建以前[編集] 今、羽田といえば、「空港」の存在を思い浮かべる人も多いでしょう。しかし、羽田には漁業や海苔養殖を営み、海辺の暮らしを続けてきた歴史があり、参詣行楽地としての穴守稲荷神社の賑わい、さらには京浜電気鉄道による沿線開発などにより発展してきた歴史があります。 — 大田区HP常設展示コーナー「羽田国際空港」展示替えのお知らせから抜粋(国立国会図書館デジタルコレクションより) 多摩川にさらす手作りさらさらに 何そこの児のここだ悲しき — 詠み人知らず 『万葉...Wikipediaで続きを読む | |
引用元情報 | 「穴守稲荷神社」『ウィキペディア日本語版』。 この版のURL:https://ja.wikipedia.org/w/index.php?%E7%A9%B4%E5%AE%88%E7%A8%B2%E8%8D%B7%E7%A5%9E%E7%A4%BE&oldid=100138201 |
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