ねがひごとかならずかなふ穴守の いなりの神よいかに尊き ー 伯爵 東久世通禧
稲荷とは「稲成る・稲生る」の義であり「なる」は万物を生成する力を表す強い言霊である
そもそも稲荷大神は 畏くも伊勢の外宮に斎き祀られる豊受姫命にましまして 衣食住の三要を守り給える最も尊き大神なり
吾等一日たりともこの大神の恩顧を蒙らぬ日はなく実に神徳広大なり
羽田ではやるお穴さま 朝参り晩には利益授かる - 羽田節
古くから伝わる羽田節の一節にも謡われる 穴守大神の灼然たる神威を蒙り奉らんと 全国の講社をはじめ産業界や芸能界 或いは黎明期より航空人たちが挙って日々の平穏を祈り商売繁昌・千客万来を念願し 時の大臣すら親任ただちに馳せ詣でたと云う
明治の御代より在外邦人や外国人の参詣も数多く 大神の霊験顕著なるに感じて社前に六尺餘の狐像を献じた英国人や 石の大鳥居を建立する中国人などの話も伝わっており穴守大神を礼び奉り慕い奉る信徒層は 竪にも深く横にも広い
所謂「神人水魚の親しみ」は 唯り羽田発展の基調と云わしめ 今もなお受継がれている
厚き御稜威をうち仰ぐ あふぎがうらの御社へ
日にそへ年を経る毎に 詣で来る人いや増して
いまや都のまちまちは いふにおよばず皇国の
みなみは台湾きたは又 ほく海道の果てよりも
遥々きたるのみならず 遠くへだたるとつ国に
行きて商業するものも をりをりかりの玉章に
おのがねがひの真心を かきて送りてしり人に
ねぎごと頼む人もあり されば御国に寄留する
外国びとのみやしろに 詣づるものも数おほし
実にやみいづの証とて 朱のとりゐの数しれず
建列なるぞありがたき .
穴守のみいづは今や扇浦 とつ国人も仰ぎぬるかな - 二代目宮司 金子胤徳
社伝に云う 文化文政の頃 扇浦(現 羽田空港内)開墾の際 沿岸しばしば激浪のために害を被りたり
或時堤壁に大穴を生じ これより海水侵入せんとす ここに於いて村民等相談り 堤上に一祠を勧請し祀る処稲荷大神を以てす これ実に当社の草創なり
爾来神霊の神威灼然にして風浪の害なく五穀豊穣す その穴守を称するは「風浪が作りし穴の害より田畑を守り給う稲荷大神」という心なり
明治十八年公衆参拝の許を得 翌年十一月に「穴守稲荷神社」の御社号が官許せられてより殊に隆昌し 本邦初の神社参詣電車である京浜電鉄穴守線(現 京急空港線)の開通 鉱泉発掘や海水浴場・競馬場など聖俗糾いて殷賑を極むる
参拝の大衆日夜多く境内踵を接する如く またその景趣は東国一と讃えられ崇敬者は国内は固より遠く外つ国にも及べり 社前には数多の鳥居が奉納され(記録に拠れば四萬六千七百九十七基)其の鳥居の下に入れば雨にも濡れぬと言わしめた
立並ぶ朱の鳥居の数見ても ひろき神徳の程ぞ知らるゝ - 国学者 井上頼圀
然れど昭和二十年八月終戦にのぞみ未曾有の紛擾の中 連合国軍による羽田空港拡張の為 従来の鎮座地(現在のB滑走路南端付近)より四十八時間以内の強制退去を命ぜらるる
而して未だ戦禍の跡も癒えぬ昭和二十二年 地元崇敬者有志による熱意の奉仕により旧鎮座地と一衣帯水の地に境内地七百坪が寄進され 仮社殿を復興再建 翌年二月 現在地(大田区羽田五丁目)に遷座せり
なにごとのおわしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる - 西行法師
爾来崇敬者各位の協力により 社殿・神楽殿・社務所等を復興し 令和二年春には目出度くも奥之宮・稲荷山を竣工
漸次昔日の面影を取り戻しつつある次第なり
稲荷山に祝詞奏上淑気満つ - 石關洋子
・羽田空港の始まりと航空界との御神縁
首都東京の空の玄関口である東京国際空港(羽田空港)は、かつては羽田穴守町と呼ばれ、穴守稲荷神社の参詣を中心とした、京浜間の一大観光地として栄えていた。
大正6年(西暦1917年)、当時の神社総代で門前鉱泉宿『要館』の当主 石関倉吉氏の援助の下、早くから航空発展の重要性に目をつけた二人の青年、玉井清太郎と相羽有らによって、羽田穴守の地に「日本飛行学校」と「日本飛行機製作所」が創立された。
当時、飛行学校の練習生が初めてソロ(単独飛行)する前夜、ひそかに油揚げを献じたところ、上首尾だったので御礼参りをしたエピソードも残っており、この頃から既に航空安全の信仰を得ていた事がうかがえる。
これが羽田における航空史の始まりであり、また穴守稲荷神社と航空界との御神縁の始まりである。
やがて、門前町羽田は航空の適地としても注目される様になり、昭和6年(1931)には神社の北側に官営の「東京飛行場」が開港、多くの旅客機も飛び交うようになった。この東京飛行場の開港日(8月25日)をもって、現在の空港の開港記念日としている。
しかし昭和20年の敗戦を臨み、神社は連合国軍による東京飛行場接収により、社殿はもちろん、石灯籠や数多の狐像なども、すべて空港の文字通りの『礎』として滑走路の下に埋め立てられてしまった。大禍の去った跡に残ったのは、ただ一基の大鳥居だけであった。
だが、このような耐え難き艱難に見舞われても、人々の信仰は失われる事はなかった。穴守の元住民をはじめ、全国の崇敬者熱意の奉仕により、空港と一衣帯水の新境内を得て、社殿や神楽殿といった設備だけではなく、失われた祭事も徐々に復興していった。
昭和30年(1955)5月17日には、東京国際空港旧ターミナルビルが穴守稲荷の本殿跡に建設され、その屋上には空の安全を祈念し、「穴守稲荷空港分社」を祀る事になった。以来、昭和38年(1963)創建の「羽田航空神社」と連れ添って、空港の安全と繁栄を見行わした。
平成の御代になり空港沖合展開事業が始まると、旧ターミナルビルが撤去されることになり、「羽田航空神社」は第一ターミナルビルへと遷座、「空港分社」は穴守稲荷本社に合祀されたが、いずれの御社も穴守稲荷の神職により今日に至るまで祭祀が続けられている。
そして現在においても、羽田の地を災害から守る『堤防の鎮守』という草創の故実より、空港工事の安全祈願はもとより、官公庁・航空業界の要職者から個人旅行者に至るまで、航空安全のご加護を得るべく日夜参詣は絶えない。
今も境内からは、南風の午後には南西の空へ飛び立つ飛行機を境内より目近に見る事も出来る。近くには空港関係企業や訓練施設、宿舎も多く、畏敬と親しみを持って多くの尊崇を集めている。
再国際化を果たした近年では、国内だけに留まらず、嘗て干戈を交えた米国をはじめ遠く海外のエアライン各社からも崇敬を得て、御縁日には色とりどりの奉納幟が境内に翻えりその神徳を称えている。 |