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あなもりいなりじんじゃ

東京羽田 穴守稲荷神社の編集履歴
2022年04月12日(火)
公式東京都 穴守稲荷駅

穴守稲荷神社さんのプロフィール画像
穴守稲荷神社
2022年04月12日 15時46分

通称

穴守さん・羽田稲荷

編集前:穴守さん・羽田稲荷・

ご由緒

羽田の地は古くから漁師町として栄えてきた場所でした。現在の羽田空港に当たる場所は、要島と呼ばれ、江戸時代中期から埋め立てが進められ、新田開発が行われてきました。しかし、場所柄東京湾の高潮や多摩川の氾濫による水害に長い間悩まされてきました。やがて江戸時代後期(文化文政期)に堤防の守り神として、稲荷大神を小さな祠に祀ったところ、その後は全く水害に遭わなくなり、一帯は良質な田園地帯となりました。そこで「風波が堤防に作った穴の害より、田畑を守り給ふ稲荷大神」という意味から、改めてその祠に穴守稲荷大神という御名を捧げました。これが穴守稲荷神社の始まりです。

明治以降は、堤防から現在の羽田空港B滑走路南端の滑走路番号付近に遷座し、東京や横浜の稲荷信仰の中心地として「関東一流祠」とも称され、関東近辺のみならず、日本全国更には台湾やハワイにまで分社が創られる程に崇敬を集めました。当時「ねがひごと かならずかなふ 穴守の いなりの神よ いかに尊き」という和歌が詠まれたり、古くから伝わる民謡の羽田節の一節にも「羽田ではやる お穴さま 朝参り 晩には 利益授かる」と残されている事からも伺えます。
参道には、奉納された灯籠や狐像、幟旗が林立し、特に鳥居は4万6796基にも上り、数百メートルに亘ってトンネル状に連なり「雨の日にその鳥居の下に入れば濡れぬ」とまで言われる程の隆盛ぶりでした。尚、京急電鉄大鳥居駅もかつて穴守稲荷神社の大鳥居があったことに由来します。
更には、元々羽田一帯が好漁場であったり、神社周辺に鉱泉が見つかった事から、一帯には旅館や料亭、土産物屋が立ち並び、遊園地・海水浴場・潮干狩場も開かれ、戦前の東京を代表する観光地の一つとなりました。その繁栄ぶりを見て、明治35年(1902年)に京浜電気鉄道(現在の京浜急行電鉄)は、現在の京急蒲田駅から支線を伸ばし、日本初『神社参詣者輸送』の為の『電気鉄道』である京浜電鉄穴守線を開業しました。それが現在の京急電鉄空港線です。(寺院参詣者輸送の電車や神社参詣者輸送の汽車は以前からありました。)
また、昭和6年(1931年)には神社北側の海域が埋め立てられ、羽田飛行場が開業しました。

しかし、終戦後の昭和20年(1945年)9月21日、羽田飛行場を軍事基地として拡張する為、連合国軍より、氏子地域であった現在の羽田空港一・二丁目に相当する羽田穴守町・羽田江戸見町・羽田鈴木町の三か町内約1200世帯、約3000名の氏子共々48時間以内の強制退去命令が下されました。
多くの氏子が着の身着のままで退去させられる中、神社も施設や宝物類はほぼ全て放棄させられ、現在地(羽田5丁目)へ強制的に遷座となる憂き目に遭いました。かつて4万6797基あった朱の鳥居も、ただ1基の大鳥居だけ残して取り壊されました。この鳥居は、現在でも京急電鉄・東京モノレール天空橋駅近くに旧穴守稲荷神社大鳥居として残っており、かつての繁栄と強制退去の歴史を今に伝える貴重な遺産として、大切にされています。(現在、国土交通省管理下)

その後、羽田地域は空港城下町として栄え、神社も多くの崇敬者のご支援によって復興を果たしました。また、現在の羽田空港に当たる一帯の守り神であった故実から、空港関係における安全祈願の神社として、航空関係者や旅行者から崇敬を得ており、旧羽田空港ターミナルビル内には、羽田航空神社とならんで穴守稲荷の分社が祀られていました。現在は空港内に祀られていた「穴守稲荷分社」は「航空稲荷」として神社境内に、そして「羽田航空神社」は第1ターミナルビル内へと遷座し、いずれも今に至るまで穴守稲荷の神職によって神事が執り行われています。

令和2年(2020年)春には、大規模な境内整備工事が竣工し、境内の様子が一新され、総本社である伏見稲荷大社を模した稲荷山や空港にあった大水瓶で作られた東京随一の大きさを誇る水琴窟が新たに完成しました。
同年より始まった羽田空港新飛行ルートでは、午後南風の際に空へ飛び立つ飛行機を境内より目近に見る事が出来ます。

こうして苦難の歴史を歩みつつも、現在は東京を代表する稲荷神社として、稲荷信仰を集めると同時に、京急電鉄・東京モノレールや羽田空港関係の航空業界・物流業界・建設業界・宿泊業界等からも、広く崇敬を集めています。

編集前:羽田の地は古くから漁師町として栄えてきた場所でした。現在の羽田空港に当たる場所は、要島と呼ばれ、江戸時代中期から埋め立てが進められ、新田開発が行われてきました。しかし、場所柄東京湾の高潮や多摩川の氾濫による水害に長い間悩まされてきました。やがて江戸時代後期(文化文政期)に堤防の守り神として、稲荷大神を小さな祠に祀ったところ、その後は全く水害に遭わなくなり、一帯は良質な田園地帯となりました。そこで「風波が堤防に作った穴の害より、田畑を守り給ふ稲荷大神」という意味から、改めてその祠に穴守稲荷大神という御名を捧げました。これが穴守稲荷神社の始まりです。

明治以降は、堤防から現在の羽田空港B滑走路南端の滑走路番号付近に遷座し、東京や横浜の稲荷信仰の中心地として「関東一流祠」とも称され、関東近辺のみならず、日本全国更には台湾やハワイにまで分社が創られる程に崇敬を集めました。当時「ねがひごと かならずかなふ 穴守の いなりの神よ いかに尊き」という和歌が詠まれたり、古くから伝わる民謡の羽田節の一節にも「羽田ではやる お穴さま 朝参り 晩には 利益授かる」と残されている事からも伺えます。
参道には、奉納された灯籠や狐像、幟旗が林立し、特に鳥居は4万6796基にも上り、数百メートルに亘ってトンネル状に連なり「雨の日にその鳥居の下に入れば濡れぬ」とまで言われる程の隆盛ぶりでした。尚、京急電鉄大鳥居駅もかつて穴守稲荷神社の大鳥居があったことに由来します。
更には、元々羽田一帯が好漁場であったり、神社周辺に鉱泉が見つかった事から、一帯には旅館や料亭、土産物屋が立ち並び、遊園地・海水浴場・潮干狩場も開かれ、戦前の東京を代表する観光地の一つとなりました。その繁栄ぶりを見て、明治35年(1902年)に京浜電気鉄道(現在の京浜急行電鉄)は、現在の京急蒲田駅から支線を伸ばし、日本初『神社参詣者輸送』の為の『電気鉄道』である京浜電鉄穴守線を開業しました。それが現在の京急電鉄空港線です。(寺院参詣者輸送の電車や神社参詣者輸送の汽車は以前からありました。)
また、昭和6年(1931年)には神社北側の海域が埋め立てられ、羽田飛行場が開業しました。

しかし、終戦後の昭和20年(1945年)9月21日、羽田飛行場を軍事基地として拡張する為、連合国軍より、氏子地域であった現在の羽田空港一・二丁目に相当する羽田穴守町・羽田江戸見町・羽田鈴木町の三か町内約1200世帯、約3000名の氏子共々48時間以内の強制退去命令が下されました。
多くの氏子が着の身着のままで退去させられる中、神社も施設や宝物類はほぼ全て放棄させられ、現在地(羽田5丁目)へ強制的に遷座となる憂き目に遭いました。かつて4万6797基あった朱の鳥居も、ただ1基の大鳥居だけ残して取り壊されました。この鳥居は、現在でも京急電鉄・東京モノレール天空橋駅近くに穴守稲荷神社旧一の大鳥居として残っており、かつての繁栄と強制退去の歴史を今に伝える貴重な遺産として、大切にされています。(現在、国土交通省管理下)

その後、羽田地域は空港城下町として栄え、神社も多くの崇敬者のご支援によって復興を果たしました。また、現在の羽田空港に当たる一帯の守り神であった故実から、空港関係における安全祈願の神社として、航空関係者や旅行者から崇敬を得ており、旧羽田空港ターミナルビル内には、羽田航空神社とならんで穴守稲荷の分社が祀られていました。現在は空港内に祀られていた「穴守稲荷分社」は「航空稲荷」として神社境内に、そして「羽田航空神社」は第1ターミナルビル内へと遷座し、いずれも今に至るまで穴守稲荷の神職によって神事が執り行われています。

令和2年(2020年)春には、大規模な境内整備工事が竣工し、境内の様子が一新され、総本社である伏見稲荷大社を模した稲荷山や空港にあった大水瓶で作られた東京随一の大きさを誇る水琴窟が新たに完成しました。
同年より始まった羽田空港新飛行ルートでは、午後南風の際に空へ飛び立つ飛行機を境内より目近に見る事が出来ます。

こうして苦難の歴史を歩みつつも、現在は東京を代表する稲荷神社として、稲荷信仰を集めると同時に、京急電鉄・東京モノレールや羽田空港関係の航空業界・物流業界・建設業界・宿泊業界等からも、広く崇敬を集めています。

創始者/開山・開基

鈴木彌五右衛門

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