しょうこうじ|浄土宗
松光寺のお参りの記録一覧
高輪にはお寺が多いです!(道を尋ねた高輪台小学校警備員さんの話)
大きいお寺もあり、小さいお寺もあり。
だが、それぞれに深い歴史がある。殆どは、江戸幕府が出来てからの、江戸、東京の歩みを見つめているのだ。
そんな中、ここ松光寺は小さな御朱印もないお寺であるが、調べていくと歴史好きには来るべき価値があると言わざるを得ない。
当山は、江戸幕府が開かれる以前、桶狭間の戦いの翌年の永禄四(1561)年、
芝西久保巴町(現在の虎ノ門あたり)に開山したと言われております。
その後、江戸の大火により類焼し、高輪へ移転してまいりました。
浄土宗に帰依していた徳川家康公の祖父の末弟の流れをくむ
上山(かみのやま)松平家とのご縁をいただき、名君と謳われた松平信之公の戒名より
「長昌院」の名を、信之公の母君の戒名「松光院殿」より寺号を賜り、
元禄元(1688)年、「清涼山長昌院松光寺(せいりょうざん ちょうしょういん しょうこうじ)」として
上山松平家並びに細川家の江戸菩提寺をお勤めしてまいりました。
「江戸浄土宗寺院寺誌史料集成(※1)」によれば、境内地は1206坪(4000㎡)を数え、
最盛期は寺侍30名を抱えるほどの隆盛を極めたそうです。
明治維新に伴う戦いで、上山松平家は江戸幕府側につき敗戦、廃仏毀釈や
二度に渡る大戦、住職の難病などが重なり当山は衰微いたしました。
祖父である19世住職はこれを憂え、医業の傍ら寺院を維持し、
父の20世住職も医師として劇症肝炎という死病と闘いながら、霊園開発を通じ
寺院の発展に努めてまいりました。
当山の宗派、浄土宗の御本尊は「悩み苦しむ全ての方を救いたい」という「阿弥陀仏」という仏様です。
現代社会は技術革新やグローバル化により、「諸行無常」とも呼べる世の中ですが、
人の心の本質的な部分には変わりえない普遍的な部分がございます。
「家族の喪失」は古来より大きな「苦」であり、喪失の悲しみやライフステージの変化を伴うものです。遺された方々は仲が良ければ良いほど辛い思いをされる、それが私たちの生きる俗世のままならぬ部分です。「おじいちゃんはどこへ行ったの?」という問いかけに、どう返せば我が子のためになるだろうかと悩まれたご家族もおありでしょう。
亡き方とのかけがえのないご縁を阿弥陀様に繋いでいただき、
遺された方々のその後の時間がより良いものになるよう、日々お勤めしていく所存です。
皆様が佳き縁に恵まれますよう心よりご祈念申し上げます。合掌
如来大慈悲哀愍護念 南無阿弥陀仏
(お寺のホームページより)
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