だいえんじ
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大圓寺ではいただけません
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大圓寺のお参りの記録(1回目)
投稿日:2023年09月27日(水)
参拝:2023年9月吉日
五十稲荷神社様→白金氷川神社様へ行き目黒に移動。雅叙園にある百段階段の企画展に行く前にお隣にある大圓寺(大円寺)様へ初めて行きました😊
【大圓寺】
目黒駅西口を下りると急な坂行人坂があり、坂の途中に大円寺がある。この坂は江戸市中から目黒不動尊への参詣路であった。行人坂の名は、大円寺を拠点にする修験道の行者が、この坂道を往来したことによる。寺伝では、寛永元年(1624年)出羽湯殿山の修験僧大海法印が大日如来を本尊として道場を開いたのが始まりという。
明和9年(1772年)寺より火を発し、江戸市中628町に延焼した。振袖火事、車町火事と並ぶ江戸三大火事の一つになり、行人坂火事として安永元年と年号も改められた 幕末になって薩摩藩島津氏の菩提寺として再興された。門を入った左手にある五百羅漢の石像(都有形)は、この大火の犠牲者供養のために当時につくられたものと伝える。
境内左側釈迦堂の本尊釈迦如来立像(国重文)は、鎌倉初期の清涼寺式生身の釈迦像であり、胎内に五臓六腑がおさめられている。正面本堂には、江戸城裏鬼門にあたる為徳川家康をモデルに大黒天を祭る。山手七福神の一つで、今日でも参詣者を集めている。
阿弥陀堂には弥陀三尊が祭られお七地蔵の木彫もある。
墓地に西運の墓がある。西運は江戸初期、隣の明王院(現在の雅叙園の位置)に住し、行人坂の修築などを行った。門前にその時の行人坂敷石造道供養碑がある。西運は八百屋お七の恋人吉三の出家後の名である。
また境内に江戸時代の庚申塔が3基あり、会津八一の歌碑も残されている。
行人坂を下ると目黒川にかかる橋がある。雁歯橋とも太鼓橋とも呼ばれ、今は後者が橋の名になっている。その当時使用された石材は寺の境内に置かれている。太鼓橋の往時の景観は、広重の錦絵『名所江戸百景•目黒太鼓橋より夕日の岡』に残されている。明王院、大円寺一帯は夕日の岡といわれ、紅葉•桜の名所でもあった。
釈迦三尊像、五百羅漢像などから成る520体ほどの石仏像は、昭和45年、都有形文化財に指定されている。
ー天台宗東京教区HPよりー
【大圓寺】
目黒駅西口を下りると急な坂行人坂があり、坂の途中に大円寺がある。この坂は江戸市中から目黒不動尊への参詣路であった。行人坂の名は、大円寺を拠点にする修験道の行者が、この坂道を往来したことによる。寺伝では、寛永元年(1624年)出羽湯殿山の修験僧大海法印が大日如来を本尊として道場を開いたのが始まりという。
明和9年(1772年)寺より火を発し、江戸市中628町に延焼した。振袖火事、車町火事と並ぶ江戸三大火事の一つになり、行人坂火事として安永元年と年号も改められた 幕末になって薩摩藩島津氏の菩提寺として再興された。門を入った左手にある五百羅漢の石像(都有形)は、この大火の犠牲者供養のために当時につくられたものと伝える。
境内左側釈迦堂の本尊釈迦如来立像(国重文)は、鎌倉初期の清涼寺式生身の釈迦像であり、胎内に五臓六腑がおさめられている。正面本堂には、江戸城裏鬼門にあたる為徳川家康をモデルに大黒天を祭る。山手七福神の一つで、今日でも参詣者を集めている。
阿弥陀堂には弥陀三尊が祭られお七地蔵の木彫もある。
墓地に西運の墓がある。西運は江戸初期、隣の明王院(現在の雅叙園の位置)に住し、行人坂の修築などを行った。門前にその時の行人坂敷石造道供養碑がある。西運は八百屋お七の恋人吉三の出家後の名である。
また境内に江戸時代の庚申塔が3基あり、会津八一の歌碑も残されている。
行人坂を下ると目黒川にかかる橋がある。雁歯橋とも太鼓橋とも呼ばれ、今は後者が橋の名になっている。その当時使用された石材は寺の境内に置かれている。太鼓橋の往時の景観は、広重の錦絵『名所江戸百景•目黒太鼓橋より夕日の岡』に残されている。明王院、大円寺一帯は夕日の岡といわれ、紅葉•桜の名所でもあった。
釈迦三尊像、五百羅漢像などから成る520体ほどの石仏像は、昭和45年、都有形文化財に指定されている。
ー天台宗東京教区HPよりー
☆山門☆
山門の両側にいらっしゃいます😊
☆参道☆
☆御本堂☆
振袖火事、車町火事と並んで江戸三大火のひとつである明和9年(1772年)の行人坂火事は、この大円寺が火元といわれている。同寺から出た火は、折からの強風により、たちまち白金から神田、湯島、下谷、浅草までを焼き尽くす大火となった。特に城中のやぐらまでも延焼したので、大円寺は以後76年間も再建を許されませんでした。
振袖火事、車町火事と並んで江戸三大火のひとつである明和9年(1772年)の行人坂火事は、この大円寺が火元といわれている。同寺から出た火は、折からの強風により、たちまち白金から神田、湯島、下谷、浅草までを焼き尽くす大火となった。特に城中のやぐらまでも延焼したので、大円寺は以後76年間も再建を許されませんでした。
☆薬師如来像☆
金箔を貼ることができます😊
金箔を貼ることができます😊
☆七福神☆
☆釈迦堂☆
清涼寺式釈迦如来立像(寄木造り•高さ162.8cm)で昭和32年に国の重要文化財に指定されています。
永観元年(983年)奈良東大寺の僧「ちょう然(ちょうねん)」が、宋に渡った折、当地で見た天竺渡来の釈迦像に大いに感動した。僧はその像の模刻を日本に持ち帰り、京都嵯峨のお堂に安置した。お堂はやがて清涼寺となった。清涼寺式と呼ぶのは、こうしたいきさつによります。清涼寺の釈迦像は美しいが故に盛んに模刻され、現在は大円寺のほか、鎌倉の極楽寺などにも安置されています。
清涼寺式釈迦如来立像(寄木造り•高さ162.8cm)で昭和32年に国の重要文化財に指定されています。
永観元年(983年)奈良東大寺の僧「ちょう然(ちょうねん)」が、宋に渡った折、当地で見た天竺渡来の釈迦像に大いに感動した。僧はその像の模刻を日本に持ち帰り、京都嵯峨のお堂に安置した。お堂はやがて清涼寺となった。清涼寺式と呼ぶのは、こうしたいきさつによります。清涼寺の釈迦像は美しいが故に盛んに模刻され、現在は大円寺のほか、鎌倉の極楽寺などにも安置されています。
☆大円寺石仏群(東京都指定有形文化財)☆
石仏群はこの大火の犠牲者供養のために、石工が50年という歳月をかけて完成したといわれています。
石仏群はこの大火の犠牲者供養のために、石工が50年という歳月をかけて完成したといわれています。
一体一体をよく見ると穏やかにほほ笑むもの、ほおづえをついて考え込んでいるもの、泣き出しそうなものと、その表情は実にさまざま
☆とろけ地蔵☆
顔や手が溶けたようなお地蔵様。このお地蔵様は『とろけ地蔵』と呼ばれ、江戸時代に漁師が海から引き上げたもので、昔から悩み事をとろけさせてくれる、ありがたいお地蔵様として信仰されてきたとか🙏🏻
顔や手が溶けたようなお地蔵様。このお地蔵様は『とろけ地蔵』と呼ばれ、江戸時代に漁師が海から引き上げたもので、昔から悩み事をとろけさせてくれる、ありがたいお地蔵様として信仰されてきたとか🙏🏻
鐘つかせていただきました。
とても綺麗な音でした。
とても綺麗な音でした。
☆手水鉢☆
☆行人坂敷石造道供養碑(区重要指定文化財)☆
☆鐘楼堂☆
☆観世音菩薩像☆
☆六地蔵☆
☆阿弥陀堂☆
☆阿弥陀三尊像(区重要指定文化財)☆
通年御朱印 『釈迦如来』
背景は雅叙園の百段階段企画展『和あかり×百段階段2023〜極彩色の百鬼夜行〜』
背景は雅叙園の百段階段企画展『和あかり×百段階段2023〜極彩色の百鬼夜行〜』
通年御朱印 『大黒天』
企画展を堪能したあとにもう一度寄らせていただきました😊
おまけその1
『お七の井戸』
雅叙園の入口にあります。
『お七の井戸』
雅叙園の入口にあります。
おまけその2
『目黒川架橋供養勢至菩薩石像』
大圓寺様の外側にあります。
『目黒川架橋供養勢至菩薩石像』
大圓寺様の外側にあります。
すてき
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