よしわらべんざいてんもとみや
吉原弁財天本宮(吉原神社奥宮)のお参りの記録一覧(3ページ目)
吉原神社の手前に鎮座してました。吉原の歴史などが掲示されて考えさせられました。その後に吉原神社もお詣りさせていただきました。
全体図です。
不明ですが供養観音像がありました。
壁に壁画を描いている最中でした。
吉原神社の石碑です。
鳥居からの本殿です。
手水舎です。
本殿です。
小さいお堂ですが、込められた思いは強い!って感じの場所です。
遊女への思い、戦争犠牲者への思いなど強い思いで作られたって感じました。
戦争犠牲者への供養のための観音さまです
カラフルな絵に見惚れてしまいました
江戸時代の初期までこの辺りは湿地帯で、多くの池が点在していたそうです。
明歴三年の大火後 湿地の一部が埋め立てられ、日本橋から吉原遊郭が移されました。
池畔に弁天祠が祀られ遊郭楼主たちの信仰を集め花園池・弁天池の名で呼ばれ、多くの参拝者が訪れていたそう。
大正12年、関東大震災では多くの人々が難を逃れようと池に飛び込み悲劇が起きてしまいます…。大きな観音像はその供養のために大正15年に造立されたそうです。
現在は、浅草七福神の一社としても多くの参拝者が訪れています。御朱印は吉原神社で頂けます。
「吉原弁財天」
蓮の花に囲まれた弁財天様が描かれています。
「花吉原名残碑」
関東大震災の犠牲者を供養する観音像がありました。もともと池があったのですが、関東大震災の際には悲劇の場所になったとのことです。
以下は、台東区教育委員会の掲示を紹介しているサイト(「猫の足あと」さま)からの孫引きです。
池は花園池・弁天池の名で呼ばれたが、大正12年の関東大震災では多くの人々がこの池に逃れ、490人が溺死したという悲劇が起こった。弁天祠附近の築山に建つ大きな観音様は、溺死した人々の供養のため大正15年に造立されたものである。昭和34年吉原電話局(現在の吉原ビル)の建設に伴う埋立工事のため、池はわずかにその名残を留めるのみとなった。
※引用終わり
遊郭の外に出ることを許されなかった女性たちも多く犠牲になったとのことです。こちらでも、眠りの安らかなることを、と手を合わせました。
吉原神社の奥宮です。
前情報は持っていなかったけど、吉原神社に向かって歩いていると目を引かざるをえず入ってみました。
御朱印は吉原神社でいただきました。
帰りに上野の梅蘭で揚げた焼きそばをいただきました。
パリパリの触感で美味しさが増しています。
吉原神社から鷲神社への公園を突っ切るオススメルートからちょっと外れると寄れる場所
皆さんの写真がたくさんなとおり、見どころもたくさんでした
関東大震災供養の観音様、ここの麓にあるお地蔵様が映画パーフェクトデイズに出てたのに似てる気がする
圧巻の鈴綱
富士塚みたいな山からの滝
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