御朱印・神社お寺の検索サイト楽しみ方
四天王寺聖徳太子1400年限定切り絵御朱印大バナー2024年11月四天王寺聖徳太子1400年限定切り絵御朱印大バナー2024年11月
總持院(谷中不動尊)ではいただけません
広告

そうじいん

總持院(谷中不動尊)のお参りの記録(1回目)
東京都日暮里駅

投稿日:2023年05月16日(火)
参拝:2023年4月吉日
谷中のお不動さんと呼ばれている。
小さなお寺であったが、なかなか歴史的にみると深い。
高村光雲・光太郎親子に縁あるお寺だという。
高村家のお墓は、巣鴨の染井霊園にあったもので、谷中と関係あるとは思わなかった。
行ってみて知る。
勉強や。

天正18年(1590)徳川家康江戸入府のとき、旗本大久保七郎右衛門忠世(彦左衛門長兄)も大山不動尊と同木同作と言われている守護神の不動尊を奉持して、神田寺町に安置しました。慶長16年(1611)2月忠世の子忠隣の代に境内地400坪(1,320平方メートル)を賜り、栄松法印を開山として茲に創建いたしました。
これより37年後の慶安元年11月には、当所へ代地を賜り移転して、町名を総持院門前町と称し、明治2年に総持院町と改め、同12年4月に谷中町となります。通称谷中不動尊はこの町名に由来しております。芝崎町の東光院が本寺です。谷中町及び近辺の信者で講中を作り、大山詣りも盛んに行われ、毎月28日の縁日には屋台も出て賑わったと言われています。
家康の長子信康(1579自刃)と、その母築山(今川義元の養女。1579賜死)の母子共に生害されたのを忠隣の孫忠朝深く憐み、元禄11年(1698)120回の御忌辰には、御位牌を当院に安置されてご冥福を祈念されたと言うことです。正五九月には代参を遣わされています。
明治23年4月高村光雲は下谷西町から当院の宅地に転居しています。門構で平家建の家でした。光太郎7歳姉さくが14歳の頃です。光太郎は日暮里小学校に通っており、谷中墓地で友達と元気に遊んでいたと言うことです。
姉のさくは利発で絵が上手で、親思いであり、光雲の無事息災を祈って当院の不動尊に願をかけていました。明治25年9月9日さくは病没します。光雲は娘の死に力を落し、思い出の残る谷中を離れ、千駄木林町に移ります。
当院は関東大震災、戦災共に、幸いにも難を免れております。(天台宗のページより)
總持院(谷中不動尊)(東京都)
總持院(谷中不動尊)(東京都)
總持院(谷中不動尊)(東京都)
總持院(谷中不動尊)(東京都)

すてき

みんなのコメント0件)

ログインしてください

ログイン無料登録すると、投稿へコメントできます。

ホトカミ見ました! で広がるご縁

ホトカミを見てお参りされた際は、
もし話す機会があれば住職さんに、「ホトカミ見てお参りしました!」とお伝えください。
住職さんも、ホトカミを通じてお参りされる方がいるんだなぁと、ホトカミ無料公式登録して、情報を発信しようという気持ちになるかもしれませんし、
「ホトカミ見ました!」きっかけで豊かな会話が生まれたら、ホトカミ運営の私たちも嬉しいです。
總持院(谷中不動尊)の投稿をもっと見る6件
コメント
お問い合わせ