くらまえじんじゃ
蔵前神社の編集履歴
ご由緒
当社は、徳川第五代将軍綱吉公が元禄六年(1693)八月五日、山城国(京都)男山の石清水八幡宮を当地に勧請したのが始まりです。以来、江戸城鬼門除の守護神ならびに徳川将軍家祈願所の一社として篤く尊崇せられ、御朱印社領二百石を寄進せられました。文政年間の『御府内備考続編』ならびに「寺社書上」には次のように記されています。
石清水八幡宮。御朱印社領二百石。当社、石清水八幡宮境内、拝受の儀は、元禄六酉年五月二十七日、高野山興山寺上り屋敷拝受つかまつり、同年八月、八幡宮社頭建立の節、御金子三百両拝受つかまつり、諸堂建立つかまつり候。其の節、境内坪数二千二百七十一坪六合拝受つかまつり候。其の後、享保十七子年三月二十八日類焼つかまつり候に付、替地として、元坪の通り、浅草三嶋町に遷し置かれ候ところ、延享元子年一二月二十日、寺社御奉行大岡越前守忠相殿、三嶋町の儀、御祈願所に不相応にして、別けても、神前の向、宜しからず候に付、此の度、御上意を以て元地へ引き移し候よう仰せ付けられ候旨、申し渡され候。
すなわち、創建三十九年後に類焼し、浅草三嶋町に遷されていましたが、その十二年後の延享元年四月十五日、元地である蔵前(八幡町)に還幸しました。当時は神仏習合思想に基づき、全国の主要な神社には付属して別当寺が建立されていました。そして、当社石清水八幡宮の別当寺としては、雄徳山大護院(新義真言宗)が営まれ、江戸の「切絵図」にも見られます。
正式な社号は『石清水八幡宮』ですが、一般には『藏前八幡』または『東石清水宮』と唱えられ、庶民の崇敬者がはなはだ多く関東地方における名社の一つに数えられました。
また、天保十二年(1841)十二月には、日本橋の「成田不動」(成田山御旅宿)が、幕府の方針に基づく寺社御奉行松平伊賀守忠優の達を受けて、当社境内に遷されました。
江戸時代も幕末の安政二年(1855)十月二日、江戸を襲った所謂「安政の大地震」では、儒学者藤田東湖を含む一万余人もの犠牲者を見てしまいましたが、幕府は安政四年七月、当社境内に高さ一夫五尺の「宝塔」一基(大施餓鬼塔)を建立し、その十月には開眼供養を行わしめました。
明治に入ると、その三月に「神仏分離令」が布告され、別当寺である雄徳山大護院は廃寺(廃絶)となりました。
そして、成田不動は、明治二年深川に遷され、大施餓鬼塔も、同三年練馬の東高野山に移されました。
明治六年八月、郷社に別格し、同十一年十一月、社号をそれまでの「石清水八幡宮」から、「石清水神社」と改称、さらに同十九年四月、再び『石清水八幡宮』と改称しました。
其の後、大正十二年九月の関東大震災および昭和二十年三月の戦災により社殿を焼失、昭和二十二年九月、隣接の稲荷神社と相殿・北野天満宮とを合併合祀し、同二十六年三月、社号を『蔵前神社』と改称、平成七年十月、創建当初から境内神社として鎮座の「鹽竃神社」(陸前国宮城郡鎮座鹽竃神社遥拝殿)を合祀して現在に至っています。
また、当社は相撲との深い関係があります。江戸時代のことですが、当社境内で勧進大相撲が開催されました。その回数は宝暦七年(1757)十月を始めとして、安永・天明・寛政・享和・文化・文政と約七十年の間に二十三回にも及び、その三大拠点の一つでした。
とくに、天明年間には、大関谷風や関脇小野川が、寛政年間には、大関雷電などの名力士も当社境内を舞台に活躍していました。当社で開催された本場所では幾多の名勝負が見られましたが、なかでも、天明二年(1782)二月場所七日目、安永七年(1778)以来、実に六十三連勝の谷風が新進小野川に「渡し込み」で敗れた一番は江戸中大騒ぎとなりました。現在の『縦番付』は宝暦七年十月、当社で開催された本場所から始められたものです。
そして、当社で開催された宝暦十一年(1761)十月場所より従来の歓進相撲が『勧進大相撲』となり、当場所以来の『全勝負付け』も一部欠落はしていますが現存しています。このように当社の境内は相撲熱で大いに賑わったものであり、明治時代には花相撲が行われたりもしていました。
かかる史実に基づいて、財団法人大日本相撲協会(現・財団法人日本相撲協会)より現存の社号標や石玉垣が奉納されています。
尚、文化年間後期から文政年間にかけて素人の力持を称える文化がありました。当社でも力持の技芸を披露する神事が奉納されました。分けても、その絶頂期を迎えた文政七年の春に奉納された力持は浮世絵師歌川國安の錦絵にも描かれています。それが「文政七年之春御藏前八幡宮ニ於而 奉納力持」であります。
更に、当社は古典落語「元犬」や「阿武松」の舞台ともなっており、「元犬」像が落語愛好家により奉納されています。
編集前:当社は、徳川第五代将軍綱吉公が元禄六年(1693)八月五日、山城国(京都)男山の石清水八幡宮を当地に勧請したのが始まりです。以来、江戸城鬼門除の守護神ならびに徳川将軍家祈願所の一社として篤く尊崇せられ、御朱印社領二百石を寄進せられました。文政年間の『御府内備考続編』ならびに「寺社書上」には次のように記されています。
石清水八幡宮。御朱印社領二百石。当社、石清水八幡宮境内、拝受の儀は、元禄六酉年五月二十七日、高野山興山寺上り屋敷拝受つかまつり、同年八月、八幡宮社頭建立の節、御金子三百両拝受つかまつり、諸堂建立つかまつり候。其の節、境内坪数二千二百七十一坪六合拝受つかまつり候。其の後、享保十七子年三月二十八日類焼つかまつり候に付、替地として、元坪の通り、浅草三嶋町に遷し置かれ候ところ、延享元子年一二月二十日、寺社御奉行大岡越前守忠相殿、三嶋町の儀、御祈願所に不相応にして、別けても、神前の向、宜しからず候に付、此の度、御上意を以て元地へ引き移し候よう仰せ付けられ候旨、申し渡され候。
すなわち、創建三十九年後に類焼し、浅草三嶋町に遷されていましたが、その十二年後の延享元年四月十五日、元地である蔵前(八幡町)に還幸しました。当時は神仏習合思想に基づき、全国の主要な神社には付属して別当寺が建立されていました。そして、当社石清水八幡宮の別当寺としては、雄徳山大護院(新義真言宗)が営まれ、江戸の「切絵図」にも見られます。
正式な社号は『石清水八幡宮』ですが、一般には『藏前八幡』または『東石清水宮』と唱えられ、庶民の崇敬者がはなはだ多く関東地方における名社の一つに数えられました。
また、天保十二年(1841)十二月には、日本橋の「成田不動」(成田山御旅宿)が、幕府の方針に基づく寺社御奉行松平伊賀守忠優の達を受けて、当社境内に遷されました。
江戸時代も幕末の安政二年(1855)十月二日、江戸を襲った所謂「安政の大地震」では、儒学者藤田東湖を含む一万余人もの犠牲者を見てしまいましたが、幕府は安政四年七月、当社境内に高さ一夫五尺の「宝塔」一基(大施餓鬼塔)を建立し、その十月には開眼供養を行わしめました。
明治に入ると、その三月に「神仏分離令」が布告され、別当寺である雄徳山大護院は廃寺(廃絶)となりました。
そして、成田不動は、明治二年深川に遷され、大施餓鬼塔も、同三年練馬の東高野山に移されました。
明治六年八月、郷社に別格し、同十一年十一月、社号をそれまでの「石清水八幡宮」から、「石清水神社」と改称、さらに同十九年四月、再び『石清水八幡宮』と改称しました。
其の後、大正十二年九月の関東大震災および昭和二十年三月の戦災により社殿を焼失、昭和二十二年九月、隣接の稲荷神社と相殿・北野天満宮とを合併合祀し、同二十六年三月、社号を『蔵前神社』と改称、平成七年十月、創建当初から境内神社として鎮座の「鹽竃神社」(陸前国宮城郡鎮座鹽竃神社遥拝殿)を合祀して現在に至っています。
また、当社は相撲との深い関係があります。江戸時代のことですが、当社境内で勧進大相撲が開催されました。その回数は宝暦七年(1757)十月を始めとして、安永・天明・寛政・享和・文化・文政と約七十年の間に二十三回にも及び、その三大拠点の一つでした。
とくに、天明年間には、大関谷風や関脇小野川が、寛政年間には、大関雷電などの名力士も当社境内を舞台に活躍していました。当社で開催された本場所では幾多の名勝負が見られましたが、なかでも、天明二年(1782)二月場所七日目、安永七年(1778)以来、実に六十三連勝の谷風が新進小野川に「渡し込み」で敗れた一番は江戸中大騒ぎとなりました。現在の『縦番付』は宝暦七年十月、当社で開催された本場所から始められたものです。
そして、当社で開催された宝暦十一年(1761)十月場所より従来の歓進相撲が『勧進大相撲』となり、当場所以来の『全勝負付け』も一部欠落はしていますが現存しています。このように当社の境内は相撲熱で大いに賑わったものであり、明治時代には花相撲が行われたりもしていました。
かかる史実に基づいて、財団法人大日本相撲協会(現・財団法人日本相撲協会)より現存の社号標や石玉垣が奉納されています。
尚、文化年間後期から文政年間にかけて素人の力持を称える文化がありました。当社でも力持の技芸を披露する神事が奉納されました。分けても、その絶頂期を迎えた文政七年の春に奉納された力持は浮世絵師歌川國安の錦絵にも描かれています。それが「文政七年之春御藏前八幡宮ニ於而 奉納力持」であります。
更に、当社は古典落語「元犬」や「阿武松」の舞台ともなっており、「元犬」像が落語愛好家により奉納されています。
駐車場
あり(境内に1台程)横に有料あり