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じげんじ|真言宗智山派喜楽山

慈眼寺
東京都 用賀駅

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hei
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2025年07月05日(土) 22時05分22秒
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水彩画が添えられた書き置きの御朱印のバリエーション多かったです。参拝時は季節の花の水彩画過去3ヶ月分くらいのと本堂や如来堂の御姿の御朱印紙も用意されてました。

慈眼寺(東京都)

玉川大師さん、瀬田玉川神社さんの並ぶ大山道の坂の上にあります。
当日は暑く写真データも時刻は14時半、シェアサイクルが電動アシストでなければ上ってこれなかった。

慈眼寺(東京都)

本堂扉の修繕か何かされてる最中だったので邪魔にならないよう撮影は控えめにしてました。車だとこの山門を左に曲がって左手にお寺さんの駐車場あります。道路さらに進むと瀬田玉川神社さんの駐車スペースにも行けます。

寺務所入り口のボードには母屋にいますと掲示、母屋のインターホン押すと同時に何処か屋外に出てた奥様とばったり会って御朱印お願いしました。寺務所に案内されてそちらで何体か御朱印見本を並べて選ばせていただきました。

慈眼寺の御朱印

当月の紫陽花の御朱印お受けしました。本堂や釈迦堂の御朱印紙には御本尊名まだ書き入れられてなかったのでその場で御朱印紙に書き入れるようです。

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ひでどらごん
ひでどらごん
2024年09月14日(土) 17時25分40秒
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慈眼寺(じげんじ)は、東京都世田谷区瀬田四丁目に位置する真言宗智山派の寺院です。

●歴史

慈眼寺の起源は、鎌倉時代末期にさかのぼります。1306年(徳治元年)、法印定音がこの地に草創しました。定音は諸国を巡錫していた際、滝ケ谷戸崖の中腹から降三世明王の像が発見されたことを知り、その像を譲り受けて小さな堂宇を建立し、これを祀りました。これが慈眼寺の始まりです。しかし、その後、地域の人々に災厄が続いたため、この像を地中に戻し、新たに像を彫って祀ることとなりました。定音の徳を慕う人々が増え、仏堂(修験場)に改築されたと伝えられています。法印定音は1324年(正中元年)に遷化しました。
慈眼寺が草創された当時、瀬田村は武蔵国荏原郡に属しており、相当な生産力を持つ地域でした。中世の地方文化に大きな影響を与えた修験道の信仰と修業が盛んであり、慈眼寺もその一例として位置づけられています。修験道は役の小角を祖とし、真言宗に基づくもので、鎌倉時代から室町時代にかけて多くの修験道場が武蔵国に開設されました。
1533年(天文2年)、郷士の長崎四郎左衛門の支援を受けて、法印栄音が崖上の現在地に堂宇を遷し、大日如来を本尊として安置しました。このときから慈眼寺は真言宗の寺院としての体裁を整えました。長崎四郎左衛門による支援と共に、慈眼寺は地域の信仰の中心としての地位を確立しました。
元和元年(1615年)には源長僧都によって第二の中興が行われ、長崎重勝が中興開基として明記されています。戦国時代には、地域の寺社の配置が戦略的に行われたことが示唆されていますが、徳川幕府の成立によってその時代は終息を迎えました。

●境内

本堂: 現在の本堂は1975年(昭和50年)に建立され、広さ500坪の境内に立っています。ここには大日如来坐像を祀る本堂があり、地域の人々によって大切にされています。
タラヨウ: 境内には樹高13メートルのタラヨウがあり、これは世田谷区名木100選に選ばれています。タラヨウは独特の葉の形が特徴で、古くから地域に親しまれています。
甲賀三郎の墓: 境内には、小説家甲賀三郎の墓もあります。彼の墓は慈眼寺の歴史的な一部として、訪れる人々にその文化的背景を伝えています。
本尊: 大日如来の木坐像は嘉永6年(1853年)の大火災によって損傷を受けたが、寺伝によればその後も難を避けてきたとされています。本尊の胎内には長崎家の系図が納められていると伝えられています。

本日は閉門に間に合わなかったため、外からの参拝とさせていただきます。

慈眼寺(東京都)
慈眼寺(東京都)
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慈眼寺の基本情報

住所

東京都世田谷区瀬田4-10-3

行き方

東急田園都市線 二子玉川駅より徒歩15分

アクセスを詳しく見る
名称

慈眼寺

読み方

じげんじ

御朱印あり

限定御朱印なし
御朱印の郵送対応なし

電話番号03-3700-0212
お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。
ホームページhttps://www.ans.co.jp/u/jigenji/

巡礼の詳細情報

玉川八十八ヶ所霊場

第37番

御本尊:大日如来

詳細情報

ご本尊大日如来
山号

喜楽山

院号

教令院

宗旨・宗派真言宗智山派
創建時代

1306年

開山・開基

開山 法印定音/開基 長崎四郎左衛門

ご由緒

新義真言宗で神奈川県小杉村西明寺の末寺で、京都の醍醐寺派に属する。
徳治元年(1306)法印定音が巡錫の途上、この地を通ったとき里人が滝ケ谷戸崖の中段から降三世明王を発掘したのをゆずりうけ郷士長崎四郎左衛門に告げ、天の奇異なのを思い、定音は小堂を建てこれをおまつりした。たまたま里人が障害をこうむったので再び像を地におさめ代りの像をきざんでおまつりした。里人その像をしたいくる者多く、仏堂(修験所)を改築した。定音は正中元年(1324)8月6日寂となっている。
長崎四郎左衝門(長崎家初代の重光法名、行善の弟)がこの崖下にあった修験所を天文2年栄音外護等信の力をかり、崖の上にうつし、東向7間の堂をたて本尊大日如乗を安置し、慈眼寺と称し、またこの頃、真言宗になったといわれている。
長崎家の系図によると四代の嘉国(四郎衛門尉)がこの寺を修理していることが記録されているが、なお御嶽権現も鎮座されている。長崎家は菩提所として、行書寺を小田原から移しているのでこの寺は祈願所にあてられた。
明治維新後は墓所を設定するようになり、現在260位の壇家があり小説家甲賀三郎の墓がある。
本尊大日如来の木坐像は、嘉永6年(1853年)に大火災にあっている。寺伝に難をさけて来たとあるので確かなものと思われる。寺の過去帳には「花園天皇の御念詞仏を相伝せる祐宣僧正の系統により、当山は永世五七の桐を定紋となすことを知るべし、文化十年三月之を記す」とある。定紋は本堂の屋根の棟につけてある。
なお、本尊の胎内には長崎家の系図があるという。
(せたがや社寺と史跡より)

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