きょうごくいなりじんじゃ
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京極稲荷神社について
丸亀藩(京極氏)の邸内社として寛永12年(1635)創建。
明治維新後に当地にあった下屋敷が引き払われて以降、地元有志で管理されているそうです。
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京極稲荷神社は、東京都品川区小山に鎮座するお稲荷さんです。
最寄り駅は東急目黒線・不動前駅から徒歩およそ10分、あるいは同線・武蔵小山駅から徒歩8分ほどです。どちらの駅からも程よい距離で、商店街や住宅街を抜けながら向かうことができます。
社前の道路は住宅と商店が入り混じる生活道路で、中央分離帯はなく、車の往来もそれなりに多いです。歩道には買い物帰りの人や自転車の姿が目立ち、日常の営みの中にこの小さな社が自然に溶け込んでいます。そんな活気ある一角を、まるで古くからの番人のように見守っているのが京極稲荷神社です。
ここを訪れる前から、「京極」という社号が気になっていました。京の都の中心から離れた端を意味するのか、それとも別の由来があるのか?ありがたいことに御由緒書があり、その疑問を解く手がかりが記されていました。
それによると、この地はかつて讃岐(現・香川県)丸亀藩主・京極家の下屋敷があった場所で、創建は寛永十二年(1635年)と伝わります。御神体には食物・穀物を司る豊受大神が祀られ、京都伏見稲荷の分神とも伝えられています。明治4年(1871年)の廃藩置県で京極家が当地を離れた後は、地域住民によって管理されるようになった、とのことです。おそらく「京極」と冠された社号は、この時期以降に定着したのではないかと思われます。
社殿は非常に小ぶりで、参道から見てもこぢんまりとしていますが、近づくと手入れの行き届いた佇まいが印象的です。内陣には神殿具が所定の位置に整然と並んでいます。その背後からは柔らかな灯りが包み込むように照らし、外の喧騒とは別世界の静けさが広がっていました。内陣を撮影するのはためらわれましたが、その整然とした様子が美しく、つい一枚だけスマートフォンのシャッターボタンを押しました。
周囲は商店街の賑わいに満ちていますが、境内に一歩足を踏み入れると、時間がゆったりと流れるように感じられます。この社は単なる歴史的遺構ではなく、今もなお地元の人々にとって暮らしの中の拠りどころであり続けています。そのことは、社殿や境内の手入れの細やかさ、そして灯明の柔らかな光からも伝わってきます。

歴史
京極稲荷神社の草創は、約三百六十年前の寛永十二年(一六三五年)に始まります。四国の讃岐丸亀五萬二千石の城主、京極家は、上屋敷は虎ノ門、下屋敷は二箇所に所有し、白金三光町と当地にありました。当地の屋敷は敷地面積八千四百坪に及ぶ広大なものでした。
当稲荷神社のご神体は、豊受大神と申され、京都、伏見稲荷の分神とも伝えられています。
京極家の守護神として、現在の小山二丁目十六番地辺りの茶畑の一隅に十二坪の神殿を構えていました。
明治四年の廃藩置県で藩地奉還の世となり、京極家は当神社の管理を地域住民に委ねて帰国しました。
大正七年二月に、地域の有志がこの境内地を譲り受け、神社を移して奉祀しました。(境内掲示より)
| 名称 | 京極稲荷神社 |
|---|---|
| 読み方 | きょうごくいなりじんじゃ |
詳細情報
| ご祭神 | 豊受大神 |
|---|---|
| ご由緒 | 京極稲荷神社の草創は、約三百六十年前の寛永十二年(一六三五年)に始まります。四国の讃岐丸亀五萬二千石の城主、京極家は、上屋敷は虎ノ門、下屋敷は二箇所に所有し、白金三光町と当地にありました。当地の屋敷は敷地面積八千四百坪に及ぶ広大なものでした。
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| 体験 | 武将・サムライ |
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