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はたがおかはちまんじんじゃ

旗岡八幡神社の御由緒・歴史
東京都 荏原町駅

ご祭神誉田別命、比売大神、息長帯比売命
創建時代長元三年(1030)
ご由緒

当神社は、長元元年 上総、下総で起った平忠常の乱を治めるべく、同三年(1030年)に朝命を奉じた甲斐守源頼信公が同地へ赴く際、一族郎党と共にこの地に宿営した時霊威を感得して源氏の氏神たる八幡大神を奉斎し、戦勝を祈願したのがその発祥とされている。高台に陣を敷き、源氏の白旗を靡かせ大いに武威を誇ったことから、この地が「旗岡」、あるいは「旗の台」と呼ばれたのである。
 時は下り鎌倉時代中期、源氏の庶流荏原左衛門尉義宗公(1231年〜1285年)当地の領主となるや八幡大神を尊崇すること篤く、先ずをもって御社殿の造営を志し、源家重大の守護神としてのみならず、常に地域の人々に鎮守としての御神徳の発揚に努力されたのである。当時は神仏混淆の時代であった為、義宗公の二子徳次郎が日蓮宗に帰依し、朗慶上人と称して法蓮寺(当神社隣)を開山し、当神社の別当として長く守護に当ったことが古文書に記されている。今日の当神社の基礎は正にこの時期に築かれたと申しても過言ではない。
 江戸時代に入っても御祭神の関係から武家の崇敬ことのほか篤く、毎年二月十五日に各地から集った武士達により執り行われた弓の競射は特に有名であった。試合が終って一同甘酒に舌鼓をうったその故事に習い、甘酒祭りの伝統は今日迄続いている。また、五代将軍綱吉公の守刀が現存し、文化十一年(1814)には御社殿の大改築が大奥の女中達の寄進によりなされたことは、徳川家の信仰が篤かったことを物語っている。その格天井に描かれた百四十枚余の絵は、幕府の絵師狩野探玄が娘の病気平癒を祈願したところ忽ち全快、その感謝のしるしとして奉納されたものであったが、昭和二十五年五月の空襲で御本殿とともに灰燼と帰してしまった。
 現在の御社殿は氏子崇敬者の熱烈なる奉賛活動のもと昭和三十九年に、また社務所は同六十三年に造営されたものである。このように時移り時代が変わっても、当神社は常に人々に護られ、また心のよりどころとして今日まで敬われてきたのである。

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