だいにちじ|真言宗大覚寺派|大栗山(おおぐりざん)
大日寺徳島県 石井駅
7:00~17:00
御朱印 | |||
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限定 | - | ||
御朱印帳 | - | ||
駐車場 | 西に100mほど県道沿い 普通15台(無料) |
お遍路(逆打ち) 四国八十八巡礼。
13番 大日寺。
お遍路(逆打ち) 四国八十八巡礼。
13番 大日寺。
お遍路(逆打ち) 四国八十八巡礼。
13番 大日寺。
お遍路(逆打ち) 四国八十八巡礼。
13番 大日寺。
お遍路(逆打ち) 四国八十八巡礼。
13番 大日寺。
憧れの四国八十八霊場巡り 3回目に出かけました。
兵庫から徳島の日帰りは淡路を通り抜けるためなかなかきついものですね。
四国八十八カ所霊場巡り 13番札所のお寺です。
近くの駐車場に車を停めることができ 少しだけ歩いての参拝になりました。
山門の石柱に金の文字 豪華な雰囲気が漂っています。
境内に入ると しあわせ観音がお出迎え。
山門入ってすぐ右手には大師堂。
左手奥にある本堂は彫刻も美しく 歴史を感じる佇まい。
内陣のご本尊は秘仏かなと思いきや お姿も美しい。
コンパクトな境内に参拝者が多く参っており 少々混雑していました。
御朱印を拝受する際に教わりました。
ご住職が八十八霊場唯一の外国籍の方だとか。
日本の文化が世界に広まっていく期待も込めて 世界遺産認定を願いたいものです。
山号は大栗山
院号は花藏院
宗旨宗派は真言宗大覚寺派
ご本尊は十一面観音菩薩
です。
ご真言とご詠歌は
本尊真言:おん まか きゃろにきゃ そわか
ご詠歌:阿波の国一の宮とはゆうだすき かけて頼(たの)めやこの世のちの世
でした。
由緒については
寺伝によれば 、弘仁6年(815年)に空海がこの付近にある「大師が森」で護摩修行をしていると大日如来が現れてこの地が霊地であるから一寺を建立せよと告げた。
そこでその大日如来の姿を刻み 堂宇を建立して本尊として安置し「大日寺」と称したという。
元は國中寺の場所にあり 船盡社(船盡神社・船盡比賣神社)の別当寺であった。
その後 伝承では平安時代末期に 阿波一宮が神山町の上一宮大粟神社にあるのでは不便ということで当地に分詞され 阿波一宮神社が造られると当寺はその別当寺となった。
一宮神社の別当だった神宮寺が廃絶したため 現在の所に移り一宮神社の別当寺になったとされる。
南北朝時代に 一宮神社の東の144.3mの山の頂近くに一宮城が造られ その城主であった一宮氏が当神社を深く崇敬し大宮司を兼ねる関係であったため その後の天正年間(1573年 - 1592年)に長宗我部元親の兵火によって一帯がすべて焼失し一宮氏は没落したが 江戸時代初期 徳島藩3代藩主になった蜂須賀光隆も当神社を崇敬し 当神社と当寺を再建した。
また いつの頃か 当神社が札所になると当寺は納経所として 「本尊大日如来 一宮大明神 大栗山大日寺」と記帳するようになり 一宮寺とも呼ばれるようになっていた。
明治初期の神仏分離によって 当神社の本地仏であった行基作といわれる十一面観音を当寺の本堂に本尊として移され それまでの本尊大日如来は向かって右の厨子に秘仏の脇仏とされ 当寺は神社の別当ではなくなった。
とありました。
山門(薬医門)
手水舎
しあわせ観音
本堂
本堂内陣
地蔵堂
大師堂
住所 | 徳島県徳島市一宮町西丁263 |
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行き方 | 徳島バス 神山線(名東経由・延命経由)・天の原西線・一宮線 「一の宮札所前」下車(0.1km)
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名称 | 大日寺 |
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読み方 | だいにちじ |
通称 | 一の宮寺 |
参拝時間 | 7:00~17:00 |
トイレ | 本堂の左奥 |
御朱印 | あり |
限定御朱印 | なし |
電話番号 | 088-644-0069 お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。 |
ホームページ | http://dai13.jp/ |
SNS |
四国三十三観音霊場 第5番 | 御本尊:遊戯観音 |
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四国八十八ヶ所霊場(お遍路) |
ご本尊 | 十一面観世音菩薩 |
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山号 | 大栗山(おおぐりざん) |
院号 | 花蔵院(けぞういん) |
宗旨・宗派 | 真言宗大覚寺派 |
創建時代 | 弘仁6年(815) |
開山・開基 | 弘法大師 |
ご由緒 | 徳島市には5ヶ所の霊場がある。そのいちばん西部で鮎喰川を渡った平地にあり、車の往来が激しい県道の反対側が、かつて阿波の総鎮守であった一の宮神社となっている。開基は弘法大師とされ、縁起によると「大師が森」というこの地で護摩修法をされていたさいに、空中から大日如来が紫雲とともに舞いおり、「この地は霊地なり。心あらば一宇を建立すべし」と告げられた。大師は、さっそく大日如来像を彫造して本尊とし、堂宇を建立し安置したと伝えられている。寺名の由来もこの縁起による。境内は老樹に覆われ、密教寺院の雰囲気を漂わせているが、戦国時代には「天正の兵火」により堂塔はすべてが罹災している。その後、江戸時代の前期に阿波3代目藩主、蜂須賀光隆公により本堂が再建され、諸国に国の総鎮守・一の宮が建立されたときには、その別当寺として同じ境内にあり、管理に当たっていた。 ただ、一の宮の本地仏は行基菩薩作の十一面観音像とされており、同じ境内であったため、江戸時代には一の宮神社が札所であり、納経所として参拝されていたようである。このことは真念著『四國邊路道指南』(貞享四年・1687)にも記されている。その後、明治の神仏分離令により神社は独立し、一宮寺は大日寺ともとの寺名に変えたが、もともとこの寺にあった大日如来像は脇仏となり、十一面観音像が本尊として祀られている。 日本人の心には仏と神が融和している。遍路は大師の御心を慕い歩みつづけている。 |
体験 | 御朱印宿坊札所・七福神巡り |
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