こんせんじ|高野山真言宗|亀光山(きこうざん)
金泉寺徳島県 板野駅
納経所/7:00~17:00
高野山真言宗 亀光山 釈迦院 金泉寺
四国八十八箇所霊場 第3番札所
阿波西国三十三観音霊場 第23番札所
阿波北嶺薬師霊場 第9番札所
四国八十八ヶ所巡礼でお参りさせていただくのはもちろんですが、金泉寺参拝には別にも目的がありました。
境内の倶利伽羅龍王像へのお参りと「黄金の井戸」。
倶利伽羅龍王像はものすごい迫力を感じました。
様々な御利益があるとのことで、色々とお願いしたくなるところですが、敢えて家族が皆健康で過ごせるようにお願いしました。
健康第一ですからね。
そして「黄金の井戸」は倶利伽羅龍王像に興奮して思わず忘れるところでした😅
弘法大師様が掘ったとされる井戸なのですが、中を覗き込み自分の顔がはっきりと映ったら長生きでき、ぼやけたら短命だとか。
源義経が屋島に向かう途中に立ち寄り、戦勝開運の祈願をしたとされています。
そして境内には「弁慶の力石」と呼ばれる巨石があり、これを持ち上げたという伝説があるそうです。
絶対無理でしょ?って思うくらいの巨石でした。
(写真撮ろうと思って完全に失念・・・)
山門(仁王門)
仁王門をくぐるとまっすぐな参道、その先に橋があります。
極楽橋ですね!
手水場
本堂
大師堂
八角観音堂
倶利伽羅龍王像
弁財天
弁財天に向かい合うように立つ満願弁財天
多宝塔
その手間には長慶天皇御陵
長慶天皇御陵
六地蔵尊
黄金地蔵尊
その手前にあるのが・・・
黄金の井戸です
黄金地蔵尊のとなりに建つ閻魔堂
中には閻魔様を中心として十王がいらっしゃいました
慈母観音
その足元に半透明の球体があります
球体の中には金色の童子の姿が。
慈母観音を見上げています。
かわいらしいなぁと思わずパチリ
後で調べるとウキツリボクという植物のようです
憧れで始めた 四国八十八カ所霊場巡り 3番札所のお寺です。
山号は亀光山
院号は釈迦院
宗旨宗派は高野山真言宗
ご本尊は釈迦如来
です。
御朱印帳に載っているご真言とご詠歌は
本尊真言:のうまくさんまんだ ぼだなん ばく
ご詠歌:極楽の宝の池を思えただ 黄金(こがね)の泉すみたたえたる
でした。
2番札所の極楽寺から 車だと5分ぐらいの近さです。
駐車場のすぐ横にある仁王門は朱塗りで くぐるとすぐに小さい橋(極楽橋)があります。
橋を渡ると鐘楼・慈母観音があります。
観音堂があり 修行大師像が立っています。
修行大師像はマストなのでしょう。
正面には本堂が建ち その左に護摩堂が 手前右手に大師堂があります。
帰ってきてから調べたら 境内で見落とした所がありました。
これは大失態。もう一度お参りしなければと思いました。
お参りした時間が少し遅かったからかも知れませんが 参拝者は少なかったです。
それとも3番札所だから?
少し残念な気持ちになり まあまあ近い4番札所にお参りするのは後日にしました。
金泉寺の由緒については
天平年間(729年 – 749年)に聖武天皇の勅願により行基が本尊を刻み 金光明寺と称したと言われます。
弘仁年間(810年 – 824年)に 空海(弘法大師)が訪れた際に 水不足解消のため井戸を掘り 黄金井の霊水が湧出したことから寺号を金泉寺としたそうです。
亀山法皇(天皇在位1259年 – 1274年)の信仰が厚く 京都の三十三間堂をまねた堂を建立 千躯の千手観音を祀ったと言われています。
また 背後の山を亀山と名付け山号を亀光山と改めました。
また 『源平盛衰記』には、元暦2年(1185年)に源義経が屋島に向かう途中本寺に立ち寄ったとの記載があります。
1582年(天正10年)には長宗我部元親による兵火にて大師堂以外の大半の建物を焼失しましたが 建物はその後再建されました。
境内からは奈良時代の瓦が出土しており 創建は寺伝のとおり奈良時代にさかのぼると推定されます。
とありました。
仁王門
極楽橋
手水舎
本堂
観音堂 源義経が屋島の戦いに行く前に戦勝祈願をしたと伝わります
修行大師像
太子堂
満願弁財天
俱利伽羅龍王 不動明王の化身だそうです
六地蔵尊
慈母観音像
鐘楼
帰り 淡路ハイウエイオアシスから 神戸明石方面を望む
【四国八十八ヶ所札所巡り③】
金泉寺(こんせんじ)は、徳島県板野郡板野町大寺字亀山下にある高野山真言宗の寺院。山号は亀光山(きこうざん)、院号は釈迦院(しゃかいん)。本尊は釈迦如来。四国八十八ヶ所3番札所。
寺伝によると、聖武天皇の勅願により行基菩薩が寺塔を建立、「金光明寺」と命名されたのが始まり。平安時代の弘仁年間(810年~824年)に弘法大師が四国巡教の際、日照りに苦しむ民のために井戸を掘り、霊水が湧いたことから寺号を「金泉寺」と改称した。『源平盛衰記』には、源義経が屋島に向かう途中で当寺に立ち寄り戦勝開運祈願をしたとの記載がある。鎌倉時代には亀山法皇が弘法大師を篤く信仰され各地の霊蹟を巡拝し当寺にもしばらく滞在した。この頃、京都の三十三間堂に倣い1000の千手観音像を祀る堂舎が建立され背後の山を「亀山」と命名し、山号も「亀光山」と改められた。以来、皇室との縁が深く、本堂裏に長慶天皇(在位1368年~1383年)の御陵がある。
当寺は、JR高徳線・板野駅の北東500mあまりの、主要道路・県道12号線から少し逸れた丘の南麓にある。2番札所の極楽寺からは道のり2.7km。境内は広いが、伽藍がコンパクトに集まっていて参拝しやすい。楼門、本堂、大師堂は重厚で大きく、鮮やかな彩色の観音堂が印象的。
今回は、四国八十八ヶ所札所であることから参拝した。参拝時は休日の午後で、まだ3番札所ということもあり、参拝者が多く訪れていた。
境内南端入口の<仁王門>。
左側の<吽形仁王像>。目力が抜群。
右側の<阿形仁王像>。
仁王門をくぐる。
仁王門をくぐると、しばらく参道が伸びる。
<ごくらくばし>を渡って本堂へ。
橋を渡った左手にある<水屋>。
水屋の裏手にある<鐘楼>。
水屋前から<本堂>方向を望む。右が<本堂>、左が<不動堂>。
<本堂>全景。
<本堂>から振り返って境内全景。
境内東端にある<大師堂>。
<大師堂>正面。
<大師堂>内部。
<大師堂>から振り返って境内全景。
本堂の南方正面にある<観音堂>。八角形の特徴的な造形。
<観音堂>内部。
境内北東部にある<倶利伽羅龍王>。
倶利伽羅龍王の奥にある<弁天社>
境内北東部にある<六地蔵尊>。
本堂裏手の小高い場所にある<多宝塔>。
多宝塔の右手にある<忠霊塔>。
鐘楼近くの境内西側に戻って<納経所>。御朱印はこちら。
納経所の近くにある<弁慶の力石>。弁慶が力試しに持ち上げたと言われる石。
最後に<本堂>全景。ほぼすべての伽藍が平らな場所に集まっているので廻りやすい。(^▽^)/
聖武天皇(在位724〜49)の勅願により行基菩薩が寺塔を建立し、「金光明寺」と命名されたと伝えられる。そのころの本尊は高さ約91センチの釈迦如来像で、脇侍に阿弥陀如来、薬師如来の三尊像を安置して開基したという。弘仁年間(810〜24)になって弘法大師が四国を巡教された際、村の人たちが日照りに苦しんでいるのを見て、この地に井戸を掘られた。この井戸から湧き出た水は霊水で、「長寿をもたらす黄金の井戸」とされ、寺名の「金光明寺」を改め、「金泉寺」とした。その後、亀山天皇(在位1259〜74)が法皇になられ、弘法大師を篤く信仰されて各地の霊跡を巡拝、金泉寺にもしばらく滞在された。
その間に、京都の三十三間堂(蓮華王院)に倣ならった堂舎を建立し、1,000の千手観音像を祀られ、背後の山を「亀山」と命名し、山号も「亀光山」と改めた。この堂舎には経蔵がおかれ、学僧たちで賑わったという。以来、皇室との縁が深く、長慶天皇(在位1368〜83)の御陵も本堂裏にある。また、源平合戦(元暦2年/1185)のおり、源義経が屋島に向かう途中に金泉寺に立ち寄り、戦勝開運の祈願をしたと『源平盛衰記』に伝えられている。本堂の左手にある慈母観音子安大師は、義経の祈願所ではあるが、境内西隣にある「弁慶石」もその一つで、義経が弁慶の力試しに持ち上げさせたと伝えられている。すこやかに育てと願う親心の観音菩薩。いまも人生の開運を願う参詣者が多く訪れる。
住所 | 徳島県板野郡板野町大寺亀山下66 |
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行き方 | 高徳線 板野駅下車 (0.7km)
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名称 | 金泉寺 |
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読み方 | こんせんじ |
参拝時間 | 納経所/7:00~17:00 |
参拝料 | なし |
トイレ | 駐車場にあり |
御朱印 | あり 真ん中に梵字と釈尊、左下に金泉寺と書かれ、右上に四国第三番の印、真ん中に梵字の印、左下に金泉寺の印が押されています。 |
限定御朱印 | なし |
御朱印帳 | なし |
電話番号 | 088-672-1087 お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。 |
阿波西国三十三観音霊場 第23番 | 御詠歌: 皆人の 願いをかくる 大寺の 仏の誓ひ たのもしきかな |
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阿波北嶺薬師霊場 第9番 | |
四国八十八ヶ所霊場(お遍路) |
ご本尊 | 釈迦如来 |
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山号 | 亀光山(きこうざん) |
院号 | 釈迦院(しゃかいん) |
宗旨・宗派 | 高野山真言宗 |
創建時代 | 天平年間(729〜749) |
開山・開基 | 行基菩薩 |
文化財 | 【板野町指定史跡】「金泉寺」 |
ご由緒 | 聖武天皇(在位724〜49)の勅願により行基菩薩が寺塔を建立し、「金光明寺」と命名されたと伝えられる。そのころの本尊は高さ約91センチの釈迦如来像で、脇侍に阿弥陀如来、薬師如来の三尊像を安置して開基したという。弘仁年間(810〜24)になって弘法大師が四国を巡教された際、村の人たちが日照りに苦しんでいるのを見て、この地に井戸を掘られた。この井戸から湧き出た水は霊水で、「長寿をもたらす黄金の井戸」とされ、寺名の「金光明寺」を改め、「金泉寺」とした。その後、亀山天皇(在位1259〜74)が法皇になられ、弘法大師を篤く信仰されて各地の霊跡を巡拝、金泉寺にもしばらく滞在された。 その間に、京都の三十三間堂(蓮華王院)に倣ならった堂舎を建立し、1,000の千手観音像を祀られ、背後の山を「亀山」と命名し、山号も「亀光山」と改めた。この堂舎には経蔵がおかれ、学僧たちで賑わったという。以来、皇室との縁が深く、長慶天皇(在位1368〜83)の御陵も本堂裏にある。また、源平合戦(元暦2年/1185)のおり、源義経が屋島に向かう途中に金泉寺に立ち寄り、戦勝開運の祈願をしたと『源平盛衰記』に伝えられている。本堂の左手にある慈母観音子安大師は、義経の祈願所ではあるが、境内西隣にある「弁慶石」もその一つで、義経が弁慶の力試しに持ち上げさせたと伝えられている。すこやかに育てと願う親心の観音菩薩。いまも人生の開運を願う参詣者が多く訪れる。 |
体験 | 御朱印武将・サムライ札所・七福神巡り |
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