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2025年02月16日(日) 12時06分 byくし
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元和二年(1616)野上郷が分村して作原・白岩・上長谷場・下長谷塲・御神楽の五ヶ村となるが、この時点で上下長谷塲両村の鎮守として存在していた。 あるいはこの時に上下二村の鎮守を合わせ、両社大明神として神長谷塲山の麓に祀ったらしい。日本武尊と底筒之男命というやや異質な神が合祀されてるのはこのためと思われる。 元禄十四年正月、神祇官統領より正一位の宣旨を賜る。 言い伝えによると、古くはこの神社は佐野家に崇る事があり、佐野左馬介重綱が本社を再建し、本村の古百姓四十八名が列席して、正月一日と七日の両日には「干柿・生栗・菓子・根ふか・鰹節・昆布・白赤の餅」の七品に神酒を供えて祭りを行っていた。 また、陰曆六月十五日に小麦のふかしを献じる祭い祭りもあった。 ※佐野氏に重綱という人物は3人存在し、もっとも古い田沼氏始祖の重綱に比定すれば13世紀前半。 もっとも新しい、桐生氏に養子入った重綱に比定すれば16世紀後半には当社は存在していたことになる。
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創建は建武元年(1334)、佐野氏に連なる近藤左衛門尉頼茂・大宰大弐景頼の兄弟による創建と伝わる。 元和二年(1616)野上郷が分村して作原・白岩・上長谷場・下長谷塲・御神楽の五ヶ村となり、この時に上下長谷塲両村の鎮守 両社大明神として、神長谷塲山の麓に鎮座。 日本武尊と底筒之男命という、やや異質な二柱の神が主宰神とされているのはこの時に合祀されたか? 元禄十四年正月、神祇官統領より正一位の宣旨を賜る。 言い伝えによると、古くはこの神社は佐野家に崇る事があり、佐野左馬介重綱が本社を再建し、本村の古百姓四十八名が列席して、正月一日と七日の両日には「干柿・生栗・菓子・根ふか・鰹節・昆布・白赤の餅」の七品に神酒を供えて祭りを行っていた。 また、陰曆六月十五日に小麦のふかしを献じる古い祭りもあった。
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日本武尊と底筒之男命という、やや異質な神を主宰神とする神社。
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日本武尊と底筒之男命という、やや異質な組み合わせの神を主宰神とする神社。
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元和二年(1616)以前
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建武元年(1334年)
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不詳
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近藤頼茂・近藤景頼