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2025年03月01日(土) 07時43分 byくし

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創建年代不明。
昭和四十年1965拝殿改築。

【火付けの善心坊】
文政七年(約一七〇年前)二月七日、九つ半(午前一時)ごろ、小屋村字上河原の百姓平左衛門の家の西軒下から火が出た。 その夜は特に西風が激しく吹いていたので、火はたちまち燃えひろがり、付近の農家七軒を焼きつくし、風が強まり秋山川を越え下り沢に飛び火し勇吉・平八の両家を焼き、さらに火は燃え広がり、下仙波から岩崎、神平方面までことごとく焼き尽くしようやく鎮火した。
火元の平左衛門宅をくわしく調べところ、失火ではなく付け火であろうということになり、犯人を探したところ、同月九日、下り沢の三日月神社脇で、四、五人の村人たちが、怪しい小坊主を見つけた。長五郎宅で取り調べたところ、この小坊主は善心坊といい、当年十七歳で、常陸国 真壁郡 稲野辺村の百姓 利兵衛の倅 亀蔵とわかった。
亀蔵は小さい頃からの悪戯者で、親も手に余り、村の寺の和尚に預けられ、名を善心坊と改め小坊主となった。
ところが厳しい修行に耐えられず、文政六年七月、善心坊は寺を飛び出して行く宛も放浪し、翌文政七年に下野国に入った。
しかし、どこかに落ち着くこともなく、腹が減ると畑の作物などを盗み、冬になり畑の作物もなくなり、とうとう食べ物を盗むために火付けをするようになった。
すでに何回か火付けをし、家人が火を消すため家を留守にした隙を狙い、家に忍び込んで食べ物を盗んでおり、この度の大火も善心坊が火付けしたということを白状した。
小屋村の名主多郎兵衛と年寄の長左衛門の二人は、小屋村の領主である宗対馬守の江戸屋敷に訴え出、江戸から役人が来て改めて取り調べ、八月二日に火あぶりに処されることとなった。
八月二日、江戸表から内山左衛門という検使とともに大勢の役人が来て、善心坊は馬に乗せられ村中引き回しの上、今の小屋橋の西辺りで火あぶりの刑に処された。
その当時でも火あぶりというのはごく稀で、近村ばかりでなく、遠くの町村からも野次馬が集まり一万五千人にもなったという。 集まってきた見物人に刑場付近の畑のナスやキュウリなどはすっかり盗られてしまった。
処刑された善心坊の遺体は、小屋村の明光寺の住職が引き取り観音堂の裏に葬り。罪人なれど七日・七日の供養も欠かさずされた。
家を焼かれた村人も、火あぶりの極刑にされて死んだ善心坊の罪は消えたと考え、だんごなど作って供え念仏供養をしたという。
明光寺観音堂の前には今でも善心坊の墓があるが、極悪人ということで本人の名を刻むことができなかったため、墓石の正面には「三界万霊搭」横に「文政七年」とだけ刻まれているという。
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豊代町字小屋の鎮守。
江戸時代の放火犯の逸話が伝わる。
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