さいりんじ
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西林寺のお参りの記録(1回目)
投稿日:2025年02月09日(日)
参拝:2025年1月吉日
一瓶塚稲荷神社の隣にあります。神社と境内が繋がっていて、気がついたら西林寺の敷地に入っていてそのままお参りしました🙏この日は法事だったようで人の出入りが多かったです。
栃木県史 第4巻/田代善吉 著(1972)には以下のような縁起が載っていました。
『建長2年(1250)5月10日、藤原秀郷15代の孫、安房守実綱の七男重綱(田沼に住し田沼九郎と称する)が田沼千本館の地側に於て、三千余坪の地を喜捨して、臨済宗の開祖栄西の後任たりし千光國師を勧請して一堂宇を創立して東光山玄松寺と称す。俗に鐘塚の墓地と称し墓地のみ残っている。
その後、代々本宗より相続するが、180年を経過し財産は少なく檀徒もなければ伽藍も衰退し、わずかに小庵を結びて法燈を維持した。
時に重綱四世の孫重隆は、本光寺六世翁主撮和尚に請ひて堂宇の再建の事を託して、今の地に移し堂宇伽藍を建造した、永享12年(1440)4月18日竣工した。この時に寺号を佛國山西林寺と改称し、宗派も曹洞宗となり本光寺の末寺とした。その後田沼家累代の菩提寺として発展し、檀家も増加した。』
ご本尊は釈迦牟尼佛坐像(丈2尺)とありました。
栃木県史 第4巻/田代善吉 著(1972)には以下のような縁起が載っていました。
『建長2年(1250)5月10日、藤原秀郷15代の孫、安房守実綱の七男重綱(田沼に住し田沼九郎と称する)が田沼千本館の地側に於て、三千余坪の地を喜捨して、臨済宗の開祖栄西の後任たりし千光國師を勧請して一堂宇を創立して東光山玄松寺と称す。俗に鐘塚の墓地と称し墓地のみ残っている。
その後、代々本宗より相続するが、180年を経過し財産は少なく檀徒もなければ伽藍も衰退し、わずかに小庵を結びて法燈を維持した。
時に重綱四世の孫重隆は、本光寺六世翁主撮和尚に請ひて堂宇の再建の事を託して、今の地に移し堂宇伽藍を建造した、永享12年(1440)4月18日竣工した。この時に寺号を佛國山西林寺と改称し、宗派も曹洞宗となり本光寺の末寺とした。その後田沼家累代の菩提寺として発展し、檀家も増加した。』
ご本尊は釈迦牟尼佛坐像(丈2尺)とありました。
すてき
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