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こうあんじ|曹洞宗大應山

高庵寺の編集履歴
2024年02月19日(月)
栃木県 足利駅

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くし
2024年02月19日 18時47分

ご由緒

高庵寺はもとは袋川の流域にあり、渡良瀬川に通じる交通の要衝に位置していたと考えられる。
文久二年(1862年)の寺史によると、開かれたのは天正年間(一説には天正十年(1582年)、芳岷和尚によよる開山とされる。
その後、元和年中(1615~1624年)、山川長林寺八世 雲樵祖養が再興したとする。
ただし祖養は元和三年(1617年)七月十三日に寂しているので、祖養の晩年、もしくは彼を勧請開山に迎えた可能性も想定できよう。
交通の要衝に位置した高庵寺を再興することにより、長林寺の末寺に組み込むためであったと考えられる。
万治年間(1658~61年)、大洪水で古書等が流失し旧い記録が失われる。
この後、五世良察により現在地に移転されたと記されている。ただし、世代表には良察の名はない。
十世超海和尚の代、寛政七年(1795年)に火災に遇うも、享和年中(1801~4)に本堂を再建している。
高庵寺に関する長林寺との住持の関係は、他の末寺と異なり雲樵祖養以外には確認できない。
(山川長林寺の資料より)

【勧農車塚古墳】
高庵寺境内にある、全長80m、後円部径40m・高さ?の前方後円墳。 墳丘は本堂や墓地で大きく削平されており、後円部の一部が残る。
5世紀半ばの古墳で、管玉や滑石製模造品(鎌形2・刀子形4など)が出土している。

編集前:高庵寺はもとは袋川の流域にあり、渡良瀬川に通じる交通の要衝に位置していたと考えられる。
文久二年(1862年)の寺史によると、開かれたのは天正年間(一説には天正十年(1582年)、芳岷和尚によよる開山とされる。
その後、元和年中(1615~1624年)、山川長林寺八世 雲樵祖養が再興したとする。
ただし祖養は元和三年(1617年)七月十三日に寂しているので、祖養の晩年、もしくは彼を勧請開山に迎えた可能性も
想定できよう。
交通の要衝に位置した高庵寺を再興することにより、長林寺の末寺に組み込むためであったと考えられる。
万治年間(1658~61年)、大洪水で古書等が流失し旧い記録が失われる。
この後、五世良察により現在地に移転されたと記されている。ただし、世代表には良察の名はない。
十世超海和尚の代、寛政七年(1795年)に火災に遇うも、享和年中(1801~4)に本堂を再建している。
高庵寺に関する長林寺との住持の関係は、他の末寺と異なり雲樵祖養以外には確認できない。
(山川長林寺の資料より)

【勧農車塚古墳】
高庵寺境内にある、全長80m、後円部径40m・高さ?の前方後円墳。 墳丘は本堂や墓地で大きく削平されており、後円部の一部が残る。
5世紀半ばの古墳で、管玉や滑石製模造品(鎌形2・刀子形4など)が出土している。

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