はんにゃいんやくしどう・あみだどう|不詳|牛皮山
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御朱印 | - | ||
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駐車場 | 本堂前に駐車場 10~20台前後 |
般若院薬師堂・阿弥陀堂について
田中正造旧宅の前にあるお寺、田中正造が幼少期に学んだ寺子屋とのこと。
地図上では寺院として登録されておらず、寺院としての情報も出てこないため廃寺の可能性あり。
小中町には河童伝説もあり、このすぐ西にある旗川橋下の赤渕が河童の住みかだったとのこと。
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いくつか寄り道してしまいましたが、田中正造旧宅と誕生地墓所に到着しました
現地に着いたところ、墓所の隣の駐車場にもお寺があることに気付く。 Google Mapには載っておらず、寺社に敏感な愛車のカーナビにも出てこない(?_?)
今回はホトカミで採用してる国土地理院の地図が一番正確で、ご覧のようにこの場所にはシッカリと卍マークが付いてます。
山号・院号は額が掛かっておりそのまま判明。二つの仏尊が並んで祀られてますが、片方が薬師如来というのも額から推測。
どうも廃寺らしく葬儀・墓地系サイトすら引っ掛からなくて、いつも以上に調査が難航しましたが、旅行系のサイトから唯一「田中正造が幼少期に学んだ寺子屋の阿弥陀堂」という情報が出てきてもう一つの本尊も判明☆
このお寺は珍しく北向きに立っており、東方瑠璃光浄土と西方極楽浄土に見立てて、向かって左(東)に薬師如来、右(西)に阿弥陀如来と二つの本尊を祀っているようです。
宗派・縁起・沿革はわからず。
この田中正造旧宅のある小中町には「小中の河童」という民話も伝わってます。
https://ameblo.jp/kotetsuchobi/entry-10854874486.html
まんが日本昔ばなしでも取り上げられたことがあるそうですが動画は見つからず(>_<)
このお話に出てくる見竜上人のお寺がこの般若院か浄蓮寺ではないかと期待したのですが、残念ながら光照院というまた別のお寺だった orz
光照院もすでに廃寺で、こちらについてはお寺自体が現存していないようです (佐野八十八ヶ所という廃れた霊場の情報から判明)
まぁこの民話では手は河童に返しちゃったので、現存してても河童のミイラとかは伝わってなかったと思いますがw
この田中正造旧宅から少し西に行ったところに旗川橋があり、この橋の下辺りが河童の住んでた赤渕らしい。
・・・実は小学生の頃に一度泳いだことがありますw 尻子玉取られなくて良かった(;・∀・)
田中正造誕生地墓所の隣、墓所や旧宅の駐車場になってるところにお寺があります
右側には牛皮山の額
左側には薬師堂
中を見ると院号の額もあり
これで名前だけはわかった
お寺の右側に田中正造誕生地墓所
「浄蓮寺にある田中家墓所には分骨せず」
あ、やっぱり浄蓮寺と一緒に紹介しなくて正解だったのかwww
このように般若院と隣り合わせの配置になってます
田中正造墓所
石碑には田中正造の画像が刻まれてるそうですが、ちょっとよく写らなかったですね(^^;
サーセン
香台の家紋は「丸に桔梗」
田中正造の家紋は「丸にカタバミ」なので、香台の家紋は同志にして友人だった島田三郎の家紋だと思われ
境内には石祠が一つ
敬神之碑
どうもここはもと神社、般若院の鎮守社だったようです
道の向かい側に田中正造旧宅
渡ろうとした時にちょうどパトカーが通り掛かりちょっと自重w
隠居所・表門・・・そして便所!
「ほぼ当時の姿のまま残されており、特に便所の柱や梁は、別の建物の材料を用いて建てられたことが判明した」
まさか正造翁も自宅のトイレまで詳細に調べられるとは思わなかっただろうなwww
この日は土曜日だったのですがすでに4時過ぎてまして、前日の大雨のせいか臨時休業の貼り紙もあり中は見れませんでした( ´・ω・`)
表門
旧宅の右側に浄蓮寺に通じる路地があり横からも見れます
正造宅の横にあった浅間神社と阿夫利神社
ここもGoogle Mapには載ってなかったのですが、寺社に優秀なカーナビにはシッカリ出てきましたw
まぁ単独登録するほどでもないので一緒に紹介
公民館か個人宅か判断が付かない家の庭にあったため、敷地には入らず門から遥拝(^^;
正造旧宅から数軒西側には、人丸神社の御神影や正造墓所の肖像画を描いた画家 小堀鞆音の生家跡もあります
こちらは建物は現存しておらず、敷地と道向かいに石碑があるだけ
自作の鎧を着用した小堀鞆音画伯
コスプレ好き・・・ではなくw 武者絵を得意としておりこれも研究の一環だったそうでwww
名称 | 般若院薬師堂・阿弥陀堂 |
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読み方 | はんにゃいんやくしどう・あみだどう |
詳細情報
ご本尊 | 《本尊》薬師如来・阿弥陀如来 |
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山号 | 牛皮山 |
院号 | 般若院 |
宗旨・宗派 | 不詳 |
創建時代 | 不詳 |
開山・開基 | 不詳 |
ご由緒 | 資料が見つからず由緒不明。
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体験 | 有名人のお墓伝説 |
Wikipediaからの引用
概要 | 田中 正造(たなか しょうぞう、天保12年11月3日(1841年12月15日) - 1913年(大正2年)9月4日)は、日本の幕末から明治時代にかけての村名主、政治家。日本初の公害事件と言われる足尾鉱毒事件の重鎮であり、明治天皇に直訴しようとしたことで有名。衆議院議員選挙に当選6回。幼名は兼三郎。下野国安蘇郡小中村(現・栃木県佐野市小中町)出身。足尾銅山鉱毒事件の被害者でもあり、救済を政府に訴えた。 |
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引用元情報 | 「田中正造」『ウィキペディア日本語版』。 この版のURL:https://ja.wikipedia.org/w/index.php?%E7%94%B0%E4%B8%AD%E6%AD%A3%E9%80%A0&oldid=100651309 |
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