えいしょうじ|日蓮宗|妙法山
永精寺のお参りの記録一覧
(32)妙法山 永精寺 (日蓮宗)静岡県富士市南松野1481
駿河三永寺
静岡市葵区の蓮永寺、富士市南松野の永精寺、富士市浅間上町の妙永寺
日持聖人による海外布教の原点となるお寺です
(日蓮六老僧の一人)
旧寺格 紫
(1)妙法山 永精寺 (日蓮宗)静岡県富士市南松野1481
沿革
六老僧蓮華阿閣梨日持を開山とする。
寺号標から山門あたりまでの参道
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開基壇越は日持の実兄に当たる松野六郎左衛門行成である。
弘安3年に開創された当時は蓮永寺と称したが、11世日能の代に及び
寛永元年に養珠院日心法尼(お万の方)の発願によって静岡沓谷に寺号を
移したので、永精寺と称することになった。
日持は当山に住すること十有五年、永仁3年の元旦に海外布教を志し、
高弟日教に後を譲り、飄然として旅立ったまま消息が絶えたので、
当山では出立の日を以て開山の命日としている。
静かに移った蓮永寺は徳川家の厚い庇護のもとに独立本山となるに至ったが、
当時は末寺筆頭に遇せられて、本来の関係がその後も続いた。
(5)寛文元年6月に永精寺奥の院として南松野字明神の山頂に七面堂が建立され、
享保4年正月19日には尊像の開眼供養が行われた。
明治8年、裏山が崩れて本堂が埋没したので、同13年に建立して現在に至った。親師法縁。
(ホームページより)
山門
山門の扁額さん
参道が続きます
日持聖人御霊跡
(10)参道
石段の参道が続きます。
「ちょっと ひとやすみ しませんか」
上がれば 本堂です
日持聖人と本堂
(15)妙法山 永精寺 (日蓮宗)静岡県富士市南松野1481
本尊観請方式 一塔両尊四士 拍手印
本堂から見える景色です
日持聖人は海外伝道の祖と云う伝説の僧侶ですが、詳しい消息は不明です。
本堂の玄関
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日持聖人の伝説...Wikipediaによると
日持聖人(建長2年(1250年) - 没年不詳)は、鎌倉時代中期から後期にかけての日蓮宗の僧。駿河国松野の出身。甲斐公・蓮華阿闍梨と称する。日蓮六老僧の一人。駿河国蓮永寺の開山。
鐘突堂と日持聖人
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伝説
東北や北海道函館・樺太などには、日持にまつわる伝説が残っている。
伝説によると、日持が北海道に渡ったとき、それまで見たことも無い魚が大漁に採れた。
「法華の坊さん」が来たからということで、その魚を「ホッケ」と呼ぶようになったという。
海外布教足跡調査の状況
樺太から海外布教のため旅立つもその後の日持の消息は不明とされていたが、1925年(大正15年)に、歴史家を称する中里右吉郎(中里機庵とも)という人物が満蒙調査によりその足跡を発見したとする書物『蓮華阿闍梨日持上人大陸蹈破事蹟』を蓮永寺を版元に私家版非売品として出版した。
(20)1936年(昭和11年)骨董収集家の岩田秀則が、北京の東安市場で買ったという塗銀盒を中村某から入手、
その中に日持の署名と花押付きの日蓮の題目や肖像が書かれた文書3篇があり、そのほか14点の日持の遺物とされるものを収集した
宣化出土品を日持の遺物とし、1957年に慶応義塾大学三田史学会の機関誌『史学』に『日持上人の大陸渡航』を掲載した
岩田秀則没後、新潟県長岡市の不動産会社社長・八木敦が遺物を譲り受けたのち、1987年に長岡のゴルフ場建設の道路用地取引の件で借財のあった三洋石油社長の笠井麗資に遺物を譲渡、中国大陸で両親を亡くしていた笠井は新宿の本社近くにあった常圓寺の紹介で、遺物を日蓮宗本山である身延山久遠寺に献納した
(諸説あるそうです)
本堂のひだりです、 はく尊さんが祀られています。
はく尊さん
この石仏は如意観音像でございます。
が、通称「はく尊さん」と呼ばれ、歯の守
護仏として、江戸中期頃より近在の
方々の帰依を得て降ります。
平成元年九月 記
(25)枝垂れ桜
庫裡の辺りから本堂方向
庫裡の前には、鬼瓦さん、犬さん、とたぶんクマさん(犬かも)
小さな石仏さん(この雰囲気が気に入ってます)
たぶん あれです。
(30)桜の潜伏芽
永精寺 の花
(32)帰りの山門になります。
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