ちまんじ
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智満寺ではいただけません
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智満寺のお参りの記録(1回目)
投稿日:2019年09月16日(月)
参拝:2019年5月吉日
千葉山 智満寺 天台宗
開創 宝亀2年。開基 廣智菩薩。
千葉山の山中にある天台宗の古刹。
寺伝によると
神護景雲年中に 鑑真の法孫にあたる高僧が
この地に草案を結び 宝亀2年に鑑護国家の
御願寺になったのが智満寺の創建と
いわれていて 当初 宝亀山また広智山と
称しており 平安時代の中期以降は
修験道の霊場である山岳寺院として
栄えたと考えられている。
また 本堂下とその周辺の発掘調査により
瓦が平安時代中期から後期と
鎌倉時代初期のものであることがわかり
本堂の創建年代・再建年代などを裏付ける
貴重な資料等が出土されている。
開創当時 大伽藍は火事にあい
文治5年 源頼朝の命により
千葉常胤・千葉常師たちによって本堂が再建。
現存する御本尊:千手観音菩薩像は
本尊再建と関係があるのではと指摘されており
平安時代後期の作とみられている。
この再建を契機に千葉氏の名を末代に伝えるため
山号を千葉山と改め
同鎌倉時代に山頂の奥ノ院が建立されている。
文和3年 再び火災に見舞われたため
延文年中に駿河守護今川範氏の庇護を仰ぎ復興。
今川氏没後 永禄11年
駿河に進出する武田信玄によって大津の
多くの神社が焼失し 智満寺も甲州勢に
攻めらたが 戦禍を逃れることができた。
天正16年 薬師堂が建立され
翌年天正17年 徳川家康の命により
本堂や中門が再建。
これが 現在に伝わる本堂で
五間堂・茅葺・入母屋造は桃山文化の影響が
みられる。
慶長10年に厨子
慶長15年に二十八部衆の像が再建
江戸時代に入り 仁王門・鐘楼が建立。
現在の伽藍が形成され 現在に至っている。
霊場:駿河国三十三観音霊場
開創 宝亀2年。開基 廣智菩薩。
千葉山の山中にある天台宗の古刹。
寺伝によると
神護景雲年中に 鑑真の法孫にあたる高僧が
この地に草案を結び 宝亀2年に鑑護国家の
御願寺になったのが智満寺の創建と
いわれていて 当初 宝亀山また広智山と
称しており 平安時代の中期以降は
修験道の霊場である山岳寺院として
栄えたと考えられている。
また 本堂下とその周辺の発掘調査により
瓦が平安時代中期から後期と
鎌倉時代初期のものであることがわかり
本堂の創建年代・再建年代などを裏付ける
貴重な資料等が出土されている。
開創当時 大伽藍は火事にあい
文治5年 源頼朝の命により
千葉常胤・千葉常師たちによって本堂が再建。
現存する御本尊:千手観音菩薩像は
本尊再建と関係があるのではと指摘されており
平安時代後期の作とみられている。
この再建を契機に千葉氏の名を末代に伝えるため
山号を千葉山と改め
同鎌倉時代に山頂の奥ノ院が建立されている。
文和3年 再び火災に見舞われたため
延文年中に駿河守護今川範氏の庇護を仰ぎ復興。
今川氏没後 永禄11年
駿河に進出する武田信玄によって大津の
多くの神社が焼失し 智満寺も甲州勢に
攻めらたが 戦禍を逃れることができた。
天正16年 薬師堂が建立され
翌年天正17年 徳川家康の命により
本堂や中門が再建。
これが 現在に伝わる本堂で
五間堂・茅葺・入母屋造は桃山文化の影響が
みられる。
慶長10年に厨子
慶長15年に二十八部衆の像が再建
江戸時代に入り 仁王門・鐘楼が建立。
現在の伽藍が形成され 現在に至っている。
霊場:駿河国三十三観音霊場
すてき
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