もどろぎじんじゃ
還来神社のお参りの記録一覧
大きなイチョウの木があり、秋になると
美しい風景が見られ、以前から気になっていた神社。
5月の日曜日に伺ってきました。
宮司さんはご不在でしたが、拝殿前に御朱印やお守りが並べてある棚があり、お賽銭箱にお金を入れて 御朱印をいただいてきました。(宮司さんに御用の方は 鳥居前の案内板に連絡先が書いてありました)
こちらは 旅の神様らしく、よい旅に恵まれますよう お願いしてきました。
とても静かな神社でした
書き置きをいただいてきました
還来神社(還来大明神)[もどろきと読みます]に参拝してきました。
御祭神 藤原旅子(ふじわら の たびこ)
境内社 日吉神社 若宮神社 下司神社
神 紋 下り藤 右三ツ巴
例 祭 五月五日
御祭神 藤原旅子は第50代 桓武天皇の皇妃にして、第53代 淳和天皇の生母であり、太政大臣 藤原百川(ふじわら の ももかわ)の女(むすめ)である。
往昔 此の龍華の荘(大津市伊香立途中町、上龍華町、下龍華町)は藤原氏の食邑地にして、当時其の邸宅あり(大津市栗原地先)旅子ここに生まる。
長じて比良の南麓、最勝寺の開祖、静安に随侍し佛に帰依す。土俗称して蓮華婦人という。
静安勅を奉じ、しばしば宮中に参候して、佛名会、灌佛会等を行う。是により才色兼備旅子、桓武天皇に召し出され、第53代淳和天皇を生み奉る。旅子甚だしく帝の寵愛深かりしが、京都西院に隠棲され、延暦7年(西暦788年)5月18日病を得て逝去さる。
病重篤と成りし時『我が出生の地、比良の南麓に梛(ナギ)の大樹有り、その下に葬る可し』と遺命されし故、此処に神霊として祭祀さる。(鳥居真正面の古木が初代の梛の木)
平治の乱(西暦1159年)起こりし時、戦に敗れし源義朝の一行は八瀬大原街道を敗走、ようやくにして此の還来神社社頭に着き、白羽鳴鏑の矢を献じ武運長久を祈願する。
この一行に有りし源頼朝、落伍し途中の山に迷い乍らも、やがて、還来神社に到着、源氏の再興を祈願し、東国へと走る。
後年、頼朝源氏の頭領として君臨せし時、此の還来大明神を忘れ難く神田を寄与す。
故郷に還り来たれるとの此の神社の由緒に鑑み、その後日清、日露の戦いに参戦する人、此の社に参拝をなし、無事帰還を祈願さる。太平洋戦争に至るや、参拝者引きも切らずとかや、又源義朝白羽の矢と共に、馬に付けられし鈴をも奉納されし故事を以て、祈願者大小の鈴を奉納さる。
何事も、必ず無事還れると言う御神徳に鑑み、戦い終わりし今日も、海外旅行、海外出張、旅行、交通安全、病気平癒、健康回復、又尋ね人等の帰還祈願に参拝者が絶えない。
御祭神藤原旅子の御陵、京都市西京区大枝塚原町に現存す、之を宇波多陵と称す。
(御陵は宮内庁所管)
平成元年11月 御鎮座1150年式年大祭を斎行
(還来神社 御由緒資料より)
偶然にも、明日9/8に入院治療することとなった親友と実家の母の病気平癒、無事に退院できることを祈願、御守りを頂きに参りました。🙏🏻
還来神社⛩さまには、以前より、夫の転勤による単身赴任、友人の海外転勤の時など、その時その時に参拝し、祈願して参りました。
社務所は無人でしたが、本殿に書置き御朱印、各種お守りが置かれてあり、お賽銭箱に納めるようになっています。
京都、大原三千院に通づる峠道の途中にある、まさしく途中町。
紅い橋、欄干、鳥居⛩が美しい神社さまです。
両部鳥居⛩
社頭
扁額
還の文字の右上に、●が付いているのが気になって、厚かましくも電話でお訊ねをしたのですが、解らない、とのお返事でした。(失礼を致しました😓)
ご存知の方、いらっしゃったら教えて下さい。🙇🏻♀️
狛犬さま右側
狛犬さま左側
手水舎
神木 梛の木
神木 梛の木の解説
御祭神としてここに祀られている藤原旅子は、病が重くなられた時に「出生の地・比良の南麓に梛の大木があり、その下に葬ってほしい」と遺言されたので、ここに神として祀られるようになりました。
今は、梛の木の切り株しかありませんが、大切に綺麗に祀られています。
神楽殿
残念ながら、先日の台風の為か、防風ネットで見えませんでした。😓
二の明神鳥居⛩と京尾立狛犬さま
二の明神鳥居
二の明神鳥居の扁額
こちらには、還に●印はありませんでした🤔
二の鳥明神鳥居手前にあった大杉跡
🐸さまが。
大杉伐採の説明書き
大杉の切り株と🐸さま
高樹齢850年、高さ35.3m、幹回り5.4mの大木でした。強風のたびに枝が落下するなど、危険と判断されて平成30年(2018)に伐採されました。
樹齢850年😳本当に大きな杉の木でした。
惜しいです。残念です。😓
本殿
平治元年(1160)に第77代・後白河天皇から抜擢された藤原信頼は、同じく天皇の近臣であった信西と対立し、源義朝と平治の乱を起こし信西を斬首しました。
朝廷の最大の実力者となりましたが、二条天皇親政派と組んだ平清盛に敗北し、
信頼は斬首されました。
源義朝は一族を率いて東国へと逃れましたが、追討軍との戦闘で勢力が削がれ、
ついには年来の家人の裏切りにより殺害されました。義朝の三男・源頼朝(1147~1199)は一行からはぐれ、還来神社にたどり着いて源氏の再興を祈願したとされています。その後、近江国で捕えられ、清盛の継母である池禅尼の嘆願などにより助命され、伊豆国への流罪となりました。
治承・寿永の乱(1180~1185)で源頼朝は挙兵し、平家は滅亡しました。
御祭神の藤原旅子が故郷へ還り来たとの由緒から、明治時代になると日清や日露の戦地に赴く際に、無事の帰還が祈願されるようになりました。
太平洋線戦争に至ると江若鉄道(現在のJR湖西線)和邇駅から神社までの
約6kmを歩いて参拝する人々が絶えなかったと伝わります。
現在も、病気平癒、健康回復、旅の安全、交通安全、仕事の出張、海外出張、航空機の空の旅安全祈願が行われているようです。(投稿資料引用)
本殿下にカエル🐸さま
還るだけに🐸
「もどろきの かみにいのりて ぶじカエル」もどろきじんじゃ
神鹿🦌さまも。
境内社
右「下司神社」左「若宮神社」
境内社
「日吉神社」
本殿左側
地蔵尊
平成30年(2018)に杉の大木が伐採されたのに伴い、境内の危険と見做される場所の
伐採も行われました。
その作業で地蔵尊が地中より発見され、祀られるようになったとのこと。
普賢堂
普賢堂 扁額
社務所
無人です。
社務所入り口上には御由緒書きが。
境内にもう一つ入り口鳥居⛩が。
そちらの扁額
こちらにも●印はありませんでした。
社頭、正面入り口の鳥居⛩にだけ、あの●印があったことになります。🤔
お名残惜しいですが、これにて還来神社⛩さまと、しばしのお別れです、
親友、実家の母が無事に退院して還れましたら、また報告、お礼参りに来させて頂きます。ありがとうございました🙏🏻
【過去参拝】京都大原への日帰り旅行
帰り道に立ち寄った還来神社
還来神社
由緒書き
両部鳥居
御神木であるナギの木
二の鳥居
社殿
境内社 若宮神社(左)と下司神社
境内社 日吉神社
藤原旅子ゆかりの「還来(もどろぎ)神社」
R477から少し入ったところにある。看板が出てるのでわかりやすい。
鳥居前に駐車スペースあり。ついでにトイレもあり。
朱色の鳥居をくぐり、正面は御神木「梛の木」
その奥に拝殿と続く。
拝殿はそれほど大きくないが、朱色の鳥居が両部鳥居だったこともありなんか立派に感じた。
たまたまなのか無人。
藤原旅子は桓武天皇の妃で、淳和天皇の母。
旅子は、死んだら自分の出身地の梛の大樹に葬ってくれと命じ祀られたのが由緒で、"出生の地に還り来た"で「還来」と名付けられたそうです。読めん。
また、源義朝の武運長久祈願の地で、現在だと旅行祈願の神社です。
最新の限定御朱印情報が届く!
御朱印メルマガを受け取ろう
利用開始をもって利用規約・プライバシーポリシーに
同意したものとみなします。
ホトカミで困ったこと、不具合のご報告はこちらから
お問い合わせ
2
0