やくしどう・みずはんれっしちょうこんひ
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中の家の駐車場の前にお堂と大きな地蔵があるのを見つけ、気になってちょっと寄ってみました。
調べてみたところ薬師堂で、この地で果てた水戸天狗党の名もなき隊士2名を慰霊する弔魂碑とのこと。
幕末のある日、尊皇攘夷を訴える水戸天狗党は筑波山に挙兵、いわゆる「天狗党の乱」
ところが軍資金集めと称して、栃木、足利、桐生などで、放火、殺人、強盗などヒャッハー!しすぎた天狗党は、近隣諸藩やブチキレた現地住人などから激しく攻撃され、ついには那珂湊の戦いで敗北。
脱出した千余人は茨城北部の大子町に落ち延び、一橋慶喜(後の徳川慶喜)を頼るべく京を目指します。
そして太田宿から利根川を渡り本庄宿に向かう途中、この地で待ち構えていた岡部藩の藩兵と激突し逃走。
(後に天狗党は頼りとした慶喜自身に追討され壊滅)
その際に切り殺された氏名不詳の2名の天狗党隊士を不憫に思った血洗島の人々が薬師堂に葬り、大正2年に供養碑を建て、その際渋沢栄一が碑文を寄せたとのこと。
かって自身も尊皇攘夷の志士として天狗党とも行動を共にしながら、後に徳川慶喜に使えて幕臣となった渋沢栄一は、頼りとしていた慶喜に冷徹に切り捨てられてしまった天狗党に複雑な思いがあったのかもしれません。
栄一が「新しい日本を作りたい」と志した原動力の一端が、この小さなお堂に垣間見えた気がします。
小さな薬師堂
薬師堂自体の由来はわからず。
どうも血洗島は、なまじ渋沢栄一でクローズアップされてしまったせいか、それ以前の歴史がおざなりというか、ググってもあまり出てこないんですよね(ーωー)
大きなお地蔵様、渋沢一族の三代子孫にあたる渋沢宗助という人が建立したものだそうです
多数の庚申塔
薬師堂前の墓地
墓碑銘が「渋沢」となってたので、ここが渋沢家墓所かと思ったのですが、どうも血洗島は集落全体が渋沢姓らしく、他に点在する墓所もほぼ全て「渋沢」(^^;
栄一一族の墓所はどこかわかりませんでした
幕末の志士ということで、今回は新撰組三番隊長 斎藤一の愛刀 鬼神丸国重
勤皇の志士として天狗党と交流した渋沢栄一ですが、後に幕臣となったため新撰組とも関わりがあったとのこと!?
斎藤まではどうだかわかりませんが、近藤、土方とは面会したことがあるそうです
悪・即・斬! それが正義だ
やっぱ斎藤一というとるろ剣のこのイメージ
えぇ、鬼神丸が手に入った時は私も牙突の練習とかしましたともw
では実際の斎藤はどんな人だったのか調べてみたところ・・・
ミスタースポックかよ! orz
まぁこれは子孫の証言を元に描いた肖像画だそうですが・・・いくらなんでもこれはねえだろwww
フランケンシュタイン?(´・ω・`;)
うーん、強そうだけどこの写真もなんかイメージ違うw
晩年の斎藤、やはり目付きがただのジジイとなんか違う(゜゜;)
ウン、これなら説得力十分ですな(´ー`)
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