そくしょういん
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息障院のお参りの記録(1回目)
投稿日:2019年10月06日(日)
参拝:2015年10月吉日
源頼朝の弟、義経の兄の範頼の館の跡と伝えられています。吉見町のホームページには以下の記述があります。範頼が埼玉を拠点にしていたとは知りませんでした。有名な頼朝、義経に比べて、同じ兄弟でも分かっていないことが少なくないようです。
「吉見町大字御所地内の息障院がある一帯が、源範頼の居館跡と伝えられている。源範頼は頼朝の弟で平治の乱後、岩殿山に逃げ比企氏の庇護によって成長した。頼朝が鎌倉で勢力を得た後も吉見に住んでいたと思われ、館を中心とするこの地を御所と呼ぶようになったと言われている。」
「源平の合戦では義経と共に平氏追討軍を指揮していたが、頼朝が征夷大将軍になると謀反の疑いをかけられ、建久四年(1193年)八月に伊豆に流された。範頼のその後については不明であり『修善寺で自刃』『現横浜市の 太寧寺 だいねいじ で自刃』『伊予国(愛媛県)の河野氏を頼り、そこで没した』『北本市石戸宿で没した』などの諸説がある。」
「吉見町大字御所地内の息障院がある一帯が、源範頼の居館跡と伝えられている。源範頼は頼朝の弟で平治の乱後、岩殿山に逃げ比企氏の庇護によって成長した。頼朝が鎌倉で勢力を得た後も吉見に住んでいたと思われ、館を中心とするこの地を御所と呼ぶようになったと言われている。」
「源平の合戦では義経と共に平氏追討軍を指揮していたが、頼朝が征夷大将軍になると謀反の疑いをかけられ、建久四年(1193年)八月に伊豆に流された。範頼のその後については不明であり『修善寺で自刃』『現横浜市の 太寧寺 だいねいじ で自刃』『伊予国(愛媛県)の河野氏を頼り、そこで没した』『北本市石戸宿で没した』などの諸説がある。」
すてき
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sendatsu974投稿
転勤で3年間、関西で過ごした際に西国三十三観音を2巡し、東京に戻り坂東三十三観音、秩父三十四観音を巡って百観音を結願しました。寺社を巡っていると、東京の街にも思わぬ発見があります。
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