やみやじんじゃ(いずみ)
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楽しみ方八宮神社(和泉)のお参りの記録(1回目)
投稿日:2026年02月16日(月) 00時07分51秒
参拝:2025年12月吉日
八宮神社は小川町下里の社を総社とし、比企郡内の鎌倉街道上道に沿って集中的に分布する神社です。
小川町に4社、嵐山町に4社、滑川町に1社あり、当社は滑川町和泉に鎮座します。
主祭神は素戔嗚命様。勧請年月は不詳。寛永2年(1625)3月に村の鎮守社となりました。
社地を含む小字の地名を『八垣』といい、素戔嗚命様の御詠歌に由来されています。
神社の前方には中世の城跡、建久2年(1191)に開山された泉福寺があり、往古より早く開けた地域と推察されます。
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八宮神社はもともと参拝を予定していなかったのですが、勝田の淡洲神社を参拝後、なんとなく行ってみようかなと思って向かい、結果、9社ある八宮神社のうち半分も巡ってしまいました😂なので、また機会を見て残り半分を巡りたいな〜と思っています😁
式内社ではありませんが創建はかなり古いと思われ、淡洲神社と比べるとご祭神にあまり統一性がありません。
伊古神社の宮司様は、8つに分かれたから『八宮』になったのであって、本来、総社は違う名称だったのでは…?とお話されていました🤔
また、新編武蔵風土記稿に『ヤキウ』とフリガナがふられていることから、箭弓稲荷神社のことではないかと考察する方もいます。
入間川大國神社の宮司様にお話を聞いてみたところ(箭弓稲荷神社でもご奉仕されています)、否定的な感じでしたね😅こんな感じで淡洲神社に続きこちらも謎の多い神社です😵💫
ちなみに、八宮神社の分布する地域の東側に淡洲神社が集中していて、さらに南側には黒石神社が集中的に分布しており、この辺りの神社の分布はとても興味深いものとなっています。
小川町に4社、嵐山町に4社、滑川町に1社あり、当社は滑川町和泉に鎮座します。
主祭神は素戔嗚命様。勧請年月は不詳。寛永2年(1625)3月に村の鎮守社となりました。
社地を含む小字の地名を『八垣』といい、素戔嗚命様の御詠歌に由来されています。
神社の前方には中世の城跡、建久2年(1191)に開山された泉福寺があり、往古より早く開けた地域と推察されます。
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八宮神社はもともと参拝を予定していなかったのですが、勝田の淡洲神社を参拝後、なんとなく行ってみようかなと思って向かい、結果、9社ある八宮神社のうち半分も巡ってしまいました😂なので、また機会を見て残り半分を巡りたいな〜と思っています😁
式内社ではありませんが創建はかなり古いと思われ、淡洲神社と比べるとご祭神にあまり統一性がありません。
伊古神社の宮司様は、8つに分かれたから『八宮』になったのであって、本来、総社は違う名称だったのでは…?とお話されていました🤔
また、新編武蔵風土記稿に『ヤキウ』とフリガナがふられていることから、箭弓稲荷神社のことではないかと考察する方もいます。
入間川大國神社の宮司様にお話を聞いてみたところ(箭弓稲荷神社でもご奉仕されています)、否定的な感じでしたね😅こんな感じで淡洲神社に続きこちらも謎の多い神社です😵💫
ちなみに、八宮神社の分布する地域の東側に淡洲神社が集中していて、さらに南側には黒石神社が集中的に分布しており、この辺りの神社の分布はとても興味深いものとなっています。






社殿に近づくにつれ音が消えて辺り一面が無音になり、柏手を打ったらまるで大きなホールにいるかのように音が響いてビックリしました。不思議な体験?でした。

手水鉢

ご由緒

社務所

末社

八幡社

琴平社

稲荷社、天満社

金精様



境内横の山道

ここから車で境内に入れるようです。

道を挟んだ林の中に小さな社がありました。


鳥居の手前にもお社がありました。

『羽黒山』
嘉永6年4月の銘がありました。
嘉永6年4月の銘がありました。

『鎌足権現社(藤原鎌足)』

『権現様は足にご利益のある神様といわれて古くから人々に親しまれてきました。いつの頃から草履を供える習慣ができました』とあります。靴が2足供えられていました。

『三門館跡(みかどやかたあと)』
神社の前方に案内板がありました。
源頼朝の父である義朝に仕えた比企遠宗・比企の尼の館跡という言い伝えがあり、現在は館をかこっていた空堀と土塁の一部が残っています。
また、別説もあり、吾妻鏡の建久4年(1193)2月10日の条に、毛呂太郎季綱が武蔵国泉勝田の地を賜る記事があり、鎌倉初期、当地は毛呂氏の所領だったとも考えられています。地元の伝承では五所五郎丸の居館であったとされますが、それを裏付ける資料が見つかっていないそうです。
神社の前方に案内板がありました。
源頼朝の父である義朝に仕えた比企遠宗・比企の尼の館跡という言い伝えがあり、現在は館をかこっていた空堀と土塁の一部が残っています。
また、別説もあり、吾妻鏡の建久4年(1193)2月10日の条に、毛呂太郎季綱が武蔵国泉勝田の地を賜る記事があり、鎌倉初期、当地は毛呂氏の所領だったとも考えられています。地元の伝承では五所五郎丸の居館であったとされますが、それを裏付ける資料が見つかっていないそうです。
すてき
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ひなぎく885投稿
幼少期から神社や神話に触れてきました。ご由緒やその土地の歴史、かかわる人々に想いを馳せたり考察をするのが好きです。歴史を調べながら関連する場所を数珠繋ぎに巡っています。 すてきやフォローありがと...もっと読む
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