さいこうじ
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楽しみ方西光寺のお参りの記録(1回目)
投稿日:2026年06月07日(日) 16時04分56秒
参拝:2026年4月吉日
坂戸市塚越にある曹洞宗の寺院です。
当寺は『小島豊後』という武士が屋敷内に庵を建て西光庵と称したことにはじまります。後に、その子供である『小島越後』により天文年間(1532〜1555)にお寺とし、西光寺と呼ばれるようになりました。小島氏は当地に帰農して境内を寄付し開基となっています。江戸時代に入って、越生町の龍穏寺二十世の撫州春道が再興して現在に至ります。
小島豊後は山内上杉氏に仕えていましたが、後に、岩槻の太田資正家臣の比企政員に従い、その所領であった西光寺周辺の代官を務めたいたようです。
この比企政員は、鎌倉時代の比企能員の子、時員の血を引くといわれる名族です。永禄4年(1561)5月に太田資正が比企政員に対して『勝之内西光寺分』などの所領を安堵した文書が残っています。
西光寺から東に一直線に750m離れたところに名前が対になっている「東光寺」というお寺があります。そちらの案内板によると『新田義貞が鎌倉攻めの折、鎌倉街道を通り別所山で休息していたところ、東と西に光を放つところがあり、寺を建てて東光寺、西光寺とした』という伝承もあるようです。
当寺は『小島豊後』という武士が屋敷内に庵を建て西光庵と称したことにはじまります。後に、その子供である『小島越後』により天文年間(1532〜1555)にお寺とし、西光寺と呼ばれるようになりました。小島氏は当地に帰農して境内を寄付し開基となっています。江戸時代に入って、越生町の龍穏寺二十世の撫州春道が再興して現在に至ります。
小島豊後は山内上杉氏に仕えていましたが、後に、岩槻の太田資正家臣の比企政員に従い、その所領であった西光寺周辺の代官を務めたいたようです。
この比企政員は、鎌倉時代の比企能員の子、時員の血を引くといわれる名族です。永禄4年(1561)5月に太田資正が比企政員に対して『勝之内西光寺分』などの所領を安堵した文書が残っています。
西光寺から東に一直線に750m離れたところに名前が対になっている「東光寺」というお寺があります。そちらの案内板によると『新田義貞が鎌倉攻めの折、鎌倉街道を通り別所山で休息していたところ、東と西に光を放つところがあり、寺を建てて東光寺、西光寺とした』という伝承もあるようです。



案内板に「越後の大名・上杉氏に仕えた…」とあったので、最初、上杉謙信公の家臣だと思ってしまいました。この辺りじゃ珍しいなぁ、関東出兵した時の関係かな?🤔とか色々考えていたせいか、他の情報を完全に見落としました😂
墓地の方に『金子稲荷』という白狐に乗った十一面観音様が祀られていたり、勝呂氏ゆかり宝篋印塔があったみたいなんです…。見たかった😭
墓地の方に『金子稲荷』という白狐に乗った十一面観音様が祀られていたり、勝呂氏ゆかり宝篋印塔があったみたいなんです…。見たかった😭

猫ちゃんがいました🐈⬛

狛犬さん。顔がちょっと怖い😨


手水舎

先程と違う猫ちゃんがやってきました🥰

本堂





六地蔵


『薬師堂』
本尊は秘仏で眼病、諸病に悩む人々に功徳をお授けになると伝えられています。鎌倉街道の近くに薬師堂があったが、いつの頃かそれが廃され本尊は西光寺に、十二神将は東光寺におさめられることになったという伝承があります。
本尊は秘仏で眼病、諸病に悩む人々に功徳をお授けになると伝えられています。鎌倉街道の近くに薬師堂があったが、いつの頃かそれが廃され本尊は西光寺に、十二神将は東光寺におさめられることになったという伝承があります。


鐘楼
すてき
投稿者のプロフィール
ひなぎく965投稿
幼少期から神社や神話に触れてきました。ご由緒やその土地の歴史、かかわる人々に想いを馳せたり考察をするのが好きです。歴史を調べながら関連する場所を数珠繋ぎに巡っています。 すてきやフォローありがと...もっと読む
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