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十社神社のお参りの記録一覧
埼玉県 川角駅

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タケ
タケ
2023年03月02日(木)491投稿

★鎌倉街道上道散策(毛呂山町〜鳩山町)2
【散策ルート】
①大薬寺〜②十社神社〜③大類古墳群〜④苦林野古戦場跡〜⑤今川橋〜⑥圓正寺〜⑦八坂神社〜⑧赤沼供養塔〜⑨街道杉の跡〜➉鎌倉街道案内(鳩山中校庭フェンス) 
 
 大薬寺から森のある方に向かうと、十社神社が、その裏手に大類古墳群が、また、その大類古墳群の1号古墳に苦林野古戦場が隣接しています。

②十社神社
 十社神社は、毛呂山町大類にある神社です。十社神社は、貞治2年(1363)の苦林野合戦で戦死した芳賀氏の家臣金井新左エ門ほか九名の霊を弔うため、十士明神と称して創建したと伝えられ、江戸期には大類村の鎮守として祀られていました。明治維新後の社格制定に際し明治5年村社に列格、明治40年地内の愛宕神社・神明社・諏訪神社を、大正3年苦林の鹿島神社、稲荷神社を合祀しています。境内社は稲荷社、弁財天で、祭日は春祭り3月5日、秋祭り10月10日に行われています。
 森の中に潜んで建てられていますが、境内はそこそこ動きが取れます。鳥居から拝殿までの参道は神秘的で大きな鴉や猫などの棲家となってました。

十社神社の裏庭的位置にあり、川角古墳群より古墳が密集していました。高低差が大きくないのでわかりずらいですが凸凹が確かに見えます。

③大類古墳群
 毛呂山町の越辺川流域には、大類古墳群、川角古墳群、西戸古墳群の3つの古墳群があり、合わせて90基ほどの古墳が存在しています。
 大類古墳群では、2基の前方後円墳が見られ、3つの古墳群のうち大類古墳群と川角古墳群とは、若干の時間差をもって、越辺川下流の大類から上流の川角に向かって古墳が造られています。
 古代(古墳時代以降)には豪族が治め、栄えていた事が、古墳群が集中している事でわかります。

 民家と民家の隙間を埋めるかの様に大類1号墳(前方後円墳)があり、その頂きに苦林野合戦供養塔、案内板、千手観音像があります。

④苦林野(ニガバヤシノ)古戦場跡
『苦林野合戦』
 鎌倉街道沿いの苦林野を舞台に、貞治2年(1363年)、大規模な合戦が起きました。14世紀後半頃の軍記物語『太平記』に描かれた苦林野合戦です。
  室町幕府を開いた足利尊氏の子、足利基氏は、鎌倉府長官の鎌倉公方となり、補佐役である関東管領に上杉憲顕を起用しました。また、下野の武将宇都宮氏綱から越後守護職を剥奪し、憲顕に与えました。
  宇都宮氏綱の重臣芳賀禅可は処遇に腹を立て、憲顕が鎌倉へ出仕するのを見計らって襲撃しようとしました。この動きをきっかけに、足利基氏は総勢3,000人余りの軍勢を率いて鎌倉街道を進み、一方芳賀禅可は、嫡子高貞と次男高家に800騎を与えて戦いに向かわせました。
  基氏軍と芳賀軍は、苦林野付近を舞台に激しい戦いを繰り広げました。足利基氏側が戦に勝利し、芳賀軍は宇都宮へ敗退しました。
 この地域は政権情勢が不安定な鎌倉末期から室町時代(特に南北朝時代)にかけて数多くの合戦が起きています。

『苦林野古戦場跡』
 合戦の舞台となった苦林野一帯には、古墳時代の古墳(6~7世紀ごろの豪族などのお墓)が数多く残されています。江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』の「苦林野図」には、前方後円墳のほか、多数の古墳が描かれています。
 その中の1基である苦林古墳(大類1号墳)の上に、苦林野合戦供養塔があります。前面に千手観音像、背面に貞治4年(1365年)6月17日にこの地で、足利基氏、芳賀禅可両軍の戦があったことが刻まれています。

十社神社(埼玉県)

②十社神社 社号標柱

十社神社(埼玉県)

②十社神社 鳥居

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