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しみずはちまんぐう

清水八幡宮の御由緒・歴史
埼玉県 狭山市駅

ご祭神源義高
ご神体法体の義高がうちわを持って立っている像
創建時代元暦元年(1184)
ご由緒

清水八幡には源義高(清水冠者義高)がまつられています。
義高は源(木曽)義仲の嫡男ですが、源頼朝に人質として鎌倉に送られ、頼朝とその妻北条政子のとの間に生まれた娘、大姫の婿となっていました。義仲が頼朝に討ち果たされたのを知った義高は、自分にふるかかる難をのがれるため従者六人ばかりと共に祖父義賢の地(大蔵館)や義仲を助けた畠山重能の地(菅谷館)がある現在の嵐山町を目指して逃亡しましたが、当地入間河原で頼朝の追手に討ち果たされました。このくだりは「吾妻鏡」にのっていますが、それによると、政子と大姫は義高の討死を嘆き悲しみ、直接、義高を刃にかけた藤内光澄を打ち首にし、義高の霊をまつるため、その討ち果たした地、入間河原に社を建てたということです。それが清水八幡宮ですが、度重なる暴風雨や洪水で当時の社は跡形もなくなり、場所も現在では、はっきりせず、このあたりであろうと思われてます。

歴史
歴史[編集] 当社の創建は、祭神・源義高の最期が関わっている。『吾妻鏡』や旧入間川町(狭山市中心部)の総鎮守である八幡神社に残る諸伝によれば、寿永2年(1183年)に父・源義仲が挙兵して勢力を拡大し、それを危険視した源頼朝と反目して一触即発状態となった際、和議に応じた義仲により人質として息子の義高が鎌倉に送られたのが発端である。この際、義高は頼朝の娘である大姫の婿という名目で鎌倉入りすることになった。一種の政略結婚であったが大姫は義高を愛し、一時の平和が訪れた。 しかしその後に急速に義仲と頼朝の関係が悪化して合戦に発展、翌寿永3年(1184年)には義仲自身が近江国粟津原で討たれてしまう。...Wikipediaで続きを読む
引用元情報清水八幡宮」『ウィキペディア日本語版』。
この版のURL:https://ja.wikipedia.org/w/index.php?%E6%B8%85%E6%B0%B4%E5%85%AB%E5%B9%A1%E5%AE%AE&oldid=101555703

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