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新光寺のお参りの記録(2回目)
投稿日:2021年09月30日(木)
参拝:2021年9月吉日
鎌倉街道散策(所沢)2
【散策ルート】
所沢駅〜①実蔵院〜②弘法の三ツ井戸〜③新光寺〜④薬王寺〜⑤所澤神明社〜⑥堀兼分岐点〜新所沢駅
実蔵院を出て所沢青梅線を金山町方面へ行き、金山町交差点を入間方面へ行く。東川を渡る手前左手に古井戸と石碑。
②弘法の三ツ井戸
夏のある日、僧が一杯の水を所望するために立寄った民家の娘は、水を汲みに行ったが、なかなか戻って来ないので、不思議に思った僧は、帰ってきた娘にその訳を尋ねた。すると娘は、このあたりが昔から水に不便なこと、井戸まで遠くて苦労していることを話した。それを聞いた僧は、三つの場所を杖で指し示し、井戸を掘るようにと言い残していった。村人達がそこを掘ると、清らかな水がこんこんと湧き出した。村人たちは「三ツ井戸」と呼び、その僧が弘法大師だった。
三ツ井戸の少し奥には弘法大師をまつる小堂がある。このようないわれの古井戸が残っていることは、この辺りが交通の要衝であったことをうかがわせる。
三ツ井戸から東川沿いに川越所沢線へ5分で新光寺。山門前に標柱がある。
③新光寺
所沢市宮本町にある真言宗豊山派の寺院で、遊石山観音院と号します。創建年代等は不詳ながら、本尊の聖観音像は行基菩薩の作であることから行基菩薩(天平年間)による開基と考えられる。別称所沢観音。
建久4年(1193年)に源頼朝が那須野へ鷹狩りに行く途中にここで昼食をとった折り、仮小屋の地を寺に寄進したといわれている。その後この辺りは戦場となり荒れ果て頼朝寄進の土地も取られてしまいましたが、新田義貞が鎌倉に向かう途中に戦勝祈願をし、北条氏を討ち帰途再度立ち寄り黒塗りの乗鞍を奉納し、取られた土地を寄進したと伝えられている。
【散策ルート】
所沢駅〜①実蔵院〜②弘法の三ツ井戸〜③新光寺〜④薬王寺〜⑤所澤神明社〜⑥堀兼分岐点〜新所沢駅
実蔵院を出て所沢青梅線を金山町方面へ行き、金山町交差点を入間方面へ行く。東川を渡る手前左手に古井戸と石碑。
②弘法の三ツ井戸
夏のある日、僧が一杯の水を所望するために立寄った民家の娘は、水を汲みに行ったが、なかなか戻って来ないので、不思議に思った僧は、帰ってきた娘にその訳を尋ねた。すると娘は、このあたりが昔から水に不便なこと、井戸まで遠くて苦労していることを話した。それを聞いた僧は、三つの場所を杖で指し示し、井戸を掘るようにと言い残していった。村人達がそこを掘ると、清らかな水がこんこんと湧き出した。村人たちは「三ツ井戸」と呼び、その僧が弘法大師だった。
三ツ井戸の少し奥には弘法大師をまつる小堂がある。このようないわれの古井戸が残っていることは、この辺りが交通の要衝であったことをうかがわせる。
三ツ井戸から東川沿いに川越所沢線へ5分で新光寺。山門前に標柱がある。
③新光寺
所沢市宮本町にある真言宗豊山派の寺院で、遊石山観音院と号します。創建年代等は不詳ながら、本尊の聖観音像は行基菩薩の作であることから行基菩薩(天平年間)による開基と考えられる。別称所沢観音。
建久4年(1193年)に源頼朝が那須野へ鷹狩りに行く途中にここで昼食をとった折り、仮小屋の地を寺に寄進したといわれている。その後この辺りは戦場となり荒れ果て頼朝寄進の土地も取られてしまいましたが、新田義貞が鎌倉に向かう途中に戦勝祈願をし、北条氏を討ち帰途再度立ち寄り黒塗りの乗鞍を奉納し、取られた土地を寄進したと伝えられている。
②弘法の三ツ井戸 三ツ井戸と石碑
③新光寺 案内板
②弘法の三ツ井戸 石碑
②弘法の三ツ井戸 太師堂
鎌倉街道標柱 新光寺手前
鎌倉街道標柱 新光寺山門
③新光寺 山門
③新光寺 案内板
③新光寺 石像群
③新光寺 石像群
③新光寺 本堂
③新光寺 聖観音菩薩像
③新光寺 観音堂
③新光寺 観音堂
すてき
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タケ491投稿
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