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じげんじ|曹洞宗旗下山

秩父札所十三番 慈眼寺の御由緒・歴史
公式埼玉県 御花畑駅

歴史詳細情報

旗下山 慈眼寺(きかさん じげんじ)は、秩父観音霊場のひとつであり、目の健康のご利益により、多くの参拝者に親しまれています。

秩父にやってきたヤマトタケルノミコトが山号「旗下山(きかざん)」の由来

かつて、東国遠征をしていた日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は、秩父の地に立ち寄りました。

このときに、御旗を立てさせたことにより、この地は旗の下(ハタノシタ)と呼ばれるようになりました。

霊験を起こした行基

「秩父観音霊験記」の伝承によると、現在の慈眼寺がある土地は、慈眼寺建立以前から霊験あらたかな土地だったようです。

そこでは紫色の雲が立ち込め、花が降り、美しい音色が聴こえたと伝わります。

ある日、辺りに美しい音色が響きわたりました。

夜が明けてから見てみると、なんと岩の上に観音様がいらっしゃったのです。

人々はそれを見て感激し、協力しあって観音堂を建てました。

観音堂が開かれる日、ある僧が現れ、御本尊を深く礼拝して言いました。

「この御本尊は、まさに行基がおつくりになった。この地に縁のある仏像なので、侘邦(たほう)から飛んできたのだ。謹んで供養しなさい」

僧は言い終わると、たちまち姿を消しました。その僧は行基本人だったと言います。

【室町時代】東雄朔法大和尚により開山

完成した観音堂は、地域の人たちの手で守られてきました。

文暦元年(1234年)秩父札所が創設されると、文明18年(1486年)に秩父市宮地の曹洞宗広見寺二世 東雄朔法大和尚(とうゆうさくほうだいおしょう)を開祖として迎え、曹洞宗慈眼寺が開かれました。

【江戸〜現代】2度の火事で境内のほとんどが焼失

江戸時代に1度目となる火事に遭ってしまいます。そのとき、全隆興道(ぜんりゅうこうどう)という住職が、江戸に出て寄進を募り、多くの人の力を得られたことで焼け落ちたお堂が再建されたと言われています。

明治11年(1878年)、2度目の火事である秩父大火に遭い、再建された観音堂、薬師堂を含む境内のほとんどの建物が焼け落ちてしまいました。

しかし、「資金がなかったこと」と「緻密な意匠の彫刻を施したこと」から御堂の再建に難航してしまいます。

当時の住職は、観音堂の再建の資金を集めるべく、知恵を絞りました。

そこで、もともと秩父で盛んであった養蚕を始め、庫裡の2階でお蚕を育て販売しました。その資金を再建に充てることができたと伝えられています。

その結果、明治33年(1900年)に22年の歳月をかけ、緻密な意匠の荘厳な彫刻と天井画を施した観音堂が完成し、現在まで約120年の時を経ています。

ご本尊聖観世音菩薩(日本百観音秩父札所十三番目)
薬師瑠璃光如来
地蔵菩薩
福寿稲荷
十三権者(秩父札所を開創したと伝えられる十三の権者像が祀られている)
虚空蔵菩薩
阿弥陀如来
迦葉尊者
阿難尊者
十六羅漢
創建時代文明18年(1486年)
開山・開基東雄朔法大和尚
ご由緒

旗下山慈眼寺(きかさんじげんじ)は、780年前に小さなほこらから始まったと伝えられています。​曹洞宗のお寺で、本尊は聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ)です。

この場所は太古の昔、日本武​尊が東国遠征の折に立ち寄り、御旗を建てさせたことにより旗の下(ハタノシタ)と呼ばれました。それが当山の俗称であるハケノシタに変わってきました。※諸説あり

目の仏様、薬師瑠璃光如来(​やくしるりこうにょらい)を祀り、日本全国から目に悩みを持つ方や、めを伸ばしたい方がお参りに訪れます。

​毎年1月8日は「初薬師」、7月8日は「あめ薬師」と呼ばれる御祈願例大祭があり、特にあめ薬師では山門前に露店が立ち並び、夕方からは2万人を超す人で賑わいます。

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