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こんごうじ|真言宗御室派天野山

金剛寺のお参りの記録一覧
公式大阪府 河内長野駅

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らんでぃー
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2022年05月15日(日)386投稿

この日は、大阪府河内長野市にある真言宗御室派の大本山の天野山金剛寺へ行ってきました。 金剛寺は奈良時代、天平年間(729~749年)に聖武天皇の勅願により行基(ぎょうき)が開創し、平安時代には弘法大師が修業したとも伝えられる寺院です。 その後400年のあいだに一時荒廃するものの、平安時代の末期には高野山の阿観(あかん)上人が後白河上皇とその妹の八条院(はちじょういん)の篤い帰依と庇護を受け金堂、多宝塔、楼門、食堂等、現存の伽藍を再興、特に八条院は高野山より拝受した真如親王(しんにょしんのう)筆の弘法大師御影を御影堂に奉安し、当寺を祈願寺としました。 その後も歴代女院(宜秋門院・春華門院母子・嘉陽門院)の祈願寺となり、さらには阿観の弟子となった八条院の女房・大弐局(浄覚尼)と妹の六条局(覚阿尼)が二代続けて院主になった事もあり女性の参詣も出来た為、女人禁制だった高野山に対し「女人高野」とも称され有名になります。 また、金剛寺は南北朝時代には一時、南朝と北朝双方の御座所となった地としても知られます。 専ら南朝方との繋がりは深く、延元元年/建武3年(1336年)には、南朝初代・後醍醐天皇によって勅願寺に指定、さらに正平9年/文和3年(1354年)から正平14年/延文4年(1359年)に至るまで約5年間、南朝第二代・後村上天皇が子院の摩尼院と食堂を行宮(仮の皇居)として政治を執り行います。 正平5年/観応元年(1352年)に足利氏の内紛である観応の擾乱が起こると、後村上天皇は京を奪還し北朝の光厳上皇、光明上皇、崇光天皇、及び直仁親王は捕らえられて子院である観蔵院に幽閉され正平一統(北朝が南朝に降伏)が成立します。 北朝の御四方も幽閉された間は、金剛寺院内を御在所とされた為、奇しくも南北両朝が同座されることになるのです。 南北朝の動乱が終わり武家政治へと移行する中でも特に戦火に遭うこともなく寺領から産出される米や木材・炭などの商品作物を販売、特に僧房酒としての「天野酒」は全国に流通し重要な財源として寺の経済を潤し、永正11年(1514年)には依然として塔頭が70から90もあって威勢を誇ります。 銘酒として名を馳せた「天野酒」は、織田信長や豊臣秀吉などの天下人や大名衆にも贈られ、特に秀吉はこの酒を愛でて「良酒醸造に専念するように」と書かれた朱印上を下すほどでした。 明治時代となって廃仏毀釈の為もあり、塔頭は大幅に減少してしまいますが、奥河内の山に囲まれた閑静な境内に鎌倉時代からの歴史ある伽藍や摩尼院などの子院は今もなお残されており、見ごたえのある拝観となりました。 また、時期は少々逸した感はありましたが、境内の見事な枝垂桜には魅了されました。

金剛寺の山門・神門

金剛寺・桜門

金剛寺(大阪府)

金剛寺・桜門

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