こんだはちまんぐう
誉田八幡宮のお参りの記録一覧
毎年1月にお参りさせていただいているお社です。
応神天皇陵の南に接しておられます。ご祭神は「応神天皇」「仲哀天皇」「神功皇后」の
ご三方です。いずれも4世紀に実在された方で、大陸から大勢の「帰化人」が日本で新しい
文化、技術の進歩をもたらした時代です。また、神功皇后の伝説は京阪神のあまたの神社に
あるようです。
「誉田さんにお参りすると、何かが起きる」と言われ、7年間お世話になっておりますが、
7年間いい方向に導いてくださっておられる実感があり、その旨を御礼を申し上げ、
お参りいたしました。
今日から新しい御朱印帳です。1ページ目が誉田さんになりました。「神鳩」
の印がかわいい。
松の内も終わって、初詣気分が神社にはもうありませんでした。いつものすがすがしい
雰囲気に戻っていました。
「龍」の絵馬。
誉田さんご拝殿に向かう「たまじゃり道」は見ても、歩いても気持ちがよいです。
「右近の橘」です。実がなっており、その黄色が映えて美しいかったです。
大阪府羽曳野市に鎮座されています。
主祭神は、応神天皇(誉田別尊(こんだわけのみこと))で、応神天皇陵の南側に位置する神社です。
誉田八幡宮の拝殿
当宗(まさむね)神社
の説明板
当宗神社
放生橋(ほうじょうばし)の説明板
放生橋を渡ると応神天皇陵古墳
放生橋
神輿を担いでこの橋を渡るのは大変だったでしょうね
姫侍稲荷社
姫侍稲荷社の扁額
神馬像です
恵比須社
誉田八幡宮の国宝の塵地螺鈿金銅装神輿(ちりじらでんこんどうそうみこし)
毎年1月中にお参りしています。今年でもう八年目になりますが、
初めて曇りのお天気でした。それでも誉田さんの清々しい空気は変わらない。大好きなお社です。
応神天皇陵にくっついているせいか、御陵の緑が空気をきれいにしているのかもしれません。
昨年購入した神札を古札所に納めようと持参したら、今日15日はたまたま「とんど祭り」をしていました。
お札をとんど焼きの炎の中に入れて「一年の感謝・御礼」を申し上げました。
近鉄南大阪線古市駅からだと、南門から入ります。昨年は車できました。その場合は
東門側奥から入ります。
拝殿前から東門に向かって撮影。鳥居から玉じゃり道が続いています。
ご拝殿です。もう15日なので初詣の参拝客はまばらでした。
兎年の絵馬。
かわいい兎が飾られていました。
神馬には八幡さまの神紋である「三つ巴」が入っています。
式内社である「当宗神社」祀られているのは帰化人のようです。応神天皇の
ころには帰化人が日本の地にこられた時代だったとか・・・
「当宗神社」
お稲荷様
新しい神札を購入。我が家の中心に南に向けておまつりしました。
誉田さまにお参りすると何かが起こる。そんな力が感じられるお社です。
誉田八幡宮(こんだ八幡宮)
~世界遺産「百舌鳥・古市古墳群」に隣接する唯一神社~
主祭神 応神天皇
仲哀天皇
神功皇后
社格等 旧府社
創建 欽明天皇20年(559年)
札所等
河内飛鳥古社寺霊場客番
河内飛鳥古社寺霊場
客番 住吉大社
客番 誉田八幡宮
例祭 9月15日
誉田御廟山古墳(応神天皇恵我藻伏崗陵)
の南に隣接して鎮座されます。
御由緒
誉田八幡宮は、応神天皇を主祭神とし、古くから応神陵の近くにあって、御陵祭祀を司ってきました。毎年9月の大祭には神輿が、境内にある太鼓橋を渡って御陵の後円部頂上にあった御堂までお渡りして、盛大な祭礼が続けられてきました。 応神天皇陵と誉田宮のゆかりの深さを物語る神事として知られています。応神天皇の諱(いみな)は、誉田別尊(ほんだわけのみこと)と呼ばれ、現在の羽曳野市誉田にゆかりがあるとされています。 天皇が幼少の頃に居住されていたところであり、この地の誉田真若王の娘、仲津姫を皇后にされたと古記に伝えています。 応神天皇は、皇室系図である「帝記」や宮廷物語である「旧辞」あるいは「古事記」・「百済記」などによって4世紀後半に実在した人であると考えられています。 応神天皇の諱(いみな)は、誉田別尊(ほんだわけのみこと)と呼ばれ、現在の羽曳野市誉田にゆかりがあるとされています。 天皇が幼少の頃に居住されていたところであり、この地の誉田真若王の娘、仲津姫を皇后にされたと古記に伝えています。 応神天皇は、皇室系図である「帝記」や宮廷物語である「旧辞」あるいは「古事記」・「百済記」などによって4世紀後半に実在した人であると考えられています。 大和川、石川の流れる河内地方は、4世紀後半には日本と朝鮮半島と関係の緊張が高まるにつれて、瀬戸内交通の重要性が加わり、一層開発が進んだと考えられます。この機に有力氏族らに支えられた応神天皇は、河内地方を支配して、ここに新王朝を築かれたと思われます。 秦の始皇帝陵などと共に世界でも屈指の大帝王墓-応神陵・仁徳陵-をはじめ、倭の五王時代の天皇陵はほとんどが、この河内、和泉地方につくられています。 応神天皇の崩御に際して御陵がこの誉田の地に築かれたのは、このように天皇ゆかりの地であったことと、4・5世紀代におけるこの地方が、重要な位置を占めていた地理的環境によるものであると考えられます。 また、応神天皇の頃は、大陸、半島からいろいろな文物が導入されて来ました。 中でも当宮に伝わる、応神天皇陵陪塚丸山古墳出土の馬具(金銅製透彫鞍金具)に象徴されるように、当時の金工、木工、革工などの秀れた工芸技術は、後世日本文化の基礎を築くものであったと云えるでしょう。 さて、応神天皇陵と誉田八幡宮のゆかりについては、「誉田宗廟縁起」によると、欽明天皇の勅願によって社殿が建立されたと記すように、かなり古くからのことであったと考えられます。 とくに、この誉田宮をはじめとして、月の岡、日の岡古墳のある若宮八幡宮(福岡県)、各地の大型前方後円墳と神社の縁起や、その関係はさらに古くからのことのようで、今後解明されねばならない問題を秘めているようです。
恵比須社
神馬
姫侍稲荷社
南大門
菅原道真公 御座石
式内 當宗社
国宝:神輿
国宝の神輿は源頼朝の寄進
放生橋
誉田林古戦場跡
縁起によると 欽明天皇の命令で応神天皇陵の前に誉田宗廟(こんだそうびょう)の神殿を建立したことがはじまりで、後冷泉(ごれいぜい)天皇の永承6年(1051)に社殿を現在の場所に移したとされています。
平安末期から鎌倉時代にかけて歴代天皇や将軍に守られて、社殿や伽藍などが整備されました。やがて八幡信仰が盛んになるにつれて、源氏を名乗る武士の信仰を集めました。
鎌倉時代には、源氏の氏神である八幡神を祀る社として信仰され、1196年(建久7年)には、源頼朝が社殿、伽藍を修復しました。
しかし、戦国時代になると再三の兵火に見舞われ、社殿や伽藍は焼失しました。現在の本殿や拝殿は、豊臣氏によって再建されたものと言われています。また護国寺も再建されましたが、明治初めの廃仏毀釈により取り壊され、唯一南大門だけが当時を偲しのぶ建物として残っています。
その他、八幡宮には源頼朝寄進の「塵地螺鈿金銅装神輿(ちりじらでんこんどうそうしんよ)」(国宝)や丸山古墳出土の「金銅装透彫鞍金具(こんどうそうすかしぼりくらかなぐ)」(国宝)など貴重なものが数多く収められています。
2019年(令和元年)7月6日、応神天皇陵古墳・仁徳天皇陵古墳をはじめとする49基の墳墓群「百舌鳥・古市古墳群」が世界文化遺産に登録されました。
~・~・~・~
なにわ馬のはなし
ある晩のこと、一人の男が孫の誕生を祝っておとずれた娘の嫁ぎ先からの帰り道、たまたま通りかかった応神陵のかたわらで、馬に乗った人に出会った。月明かりに照らされたその人の馬をみると、何ともすばらしいすがたかたちをした赤い馬であった。自分の乗っている馬と比べるとはるかに足も速く、男は自分にもこんな馬が欲しいものだと願った。するとその赤い馬に乗った人は男の願いを察してか、お互いの馬を取りかえてもよいと言う。男は大喜びで赤い馬に乗って家に帰ると、大切な馬をうまやにつなぎ、まぐさを与えて床についたのであった。 さて次の日の朝のこと、男が昨晩手に入れた赤馬のすがたを、あらためて確かめようとうまやに行ってみると、どうしたことか、そこにはくだんの駿馬にかわって土でつくった馬が立っていた。不審に思った男が昨夜馬を交換した応神陵へ行くと、陵に立つ土の馬の間に、赤い馬と取りかえたはずの自分の馬が立っていたのだった。 奈良時代の歴史書である日本書紀に、応神天皇の六代後の雄略天皇の頃の話として伝えられている、応神陵にまつわる不思議な物語です。
他に中国の民話でこのような話の類話を読んだ覚えもあります。向こうには埴輪はありませんので、陶器の馬だったり人形だったりします。
第15代天皇である応神天皇は、神功皇后(臺與)の息子であり、第26代天皇である継体天皇の5代前の祖父に当たります。この応神天皇も、邪馬台国(越前)に居たことを裏付ける記述があります。 古事記によれば応神天皇の御代(270~312年)に百済から韓鍛冶(からかぬち)卓素が来朝したとあり、鉄加工の渡来人たちを招聘したことになっています。この時代、近畿地方は鉄文化の後進国であり、鉄加工品の出土はほとんどありません。それに対して邪馬台国(越前)は、三世紀から五世紀において、日本最大の鉄加工品の産地になっています。
卑弥呼・臺與(神功皇后)・ 応神天皇(神功皇后の息子) と捉えれば納得します。
十五年秋八月壬戌朔丁卯、百濟王遣阿直伎、貢良馬二匹。卽養於輕坂上厩、因以、以阿直岐令掌飼、故號其養馬之處曰厩坂也。阿直岐、亦能讀經典、卽太子菟道稚郎子師焉。於是天皇問阿直岐曰「如勝汝博士、亦有耶。」對曰「有王仁者、是秀也。」時遣上毛野君祖荒田別・巫別於百濟、仍徵王仁也。其阿直岐者、阿直岐史之始祖也。
~・~・~・~
伊勢神宮の「外宮」を参拝された秋篠宮ご夫妻は翌22日、奈良県の神武天皇陵や京都府の明治天皇陵などを参拝されました。
公式ではなくプライベートでのお参りとのことだそうです。
宮内庁職員の方が、「御陵は天皇の体、神社は神様の精神をお祀りされる。」
また、誉田八幡宮神職さまより、「中国の騎馬乗馬を日本に広められたのが応神天皇ということで特別な神馬です。」
が、心に響きました。
応神天皇御陵
(誉田御廟山古墳)
八幡信仰
東高野街道
大阪府羽曳野市誉田3丁目2-8
東高野街道
⛩️扁額 ♡
誉田林古戦場跡
南大門
拝殿
右近の橘
左近の桜
惠比須社
神馬
姫侍稲荷社
式内 當宗社(まさむね社)
菅原道真公 御座石
朝鮮国王奉納灯籠
こちらの奥が御本殿方向になりますが、
ものすごい気を感じました
後円墳の入口に方丈橋
おまけ
猫ちゃんも丹精なお顔だちでした
前方後円墳
天皇陵御陵印
誉田宝殿
誉田八幡宮 御朱印
(大阪の陣ゆかりの地)
(古市古墳群と六社寺めぐり)
拝殿がとても大きな神社です。
欽明天皇の命で6世紀後半に創建されたと伝えられる日本最古の八幡宮です。主祭神は応神天皇です。
中世に入ってから源氏一族の氏神として崇敬されて、鎌倉時代以降は源氏一門や各時代の将軍、一般の武士らの参拝も盛んになりました。さすが武運の神様ですね。
また、大坂夏の陣「道明寺・誉田の戦い」では、大坂方の薄田兼相が陣を構え、この地より出撃して討死したとのこと。真田信繁(幸村)も付近に陣を構えていたのだそうです。
この戦いで後藤又兵衛をはじめとする討死者を出しました。
境内には石碑も建っています。
拝殿より奥に進むと、応神天皇陵へ続き、遥拝所がありました。
御朱印 大阪の陣ゆかりの地 古市古墳群と六社寺めぐり
誉田八幡宮について
鳥居
右近の橘
左近の桜
絵馬堂
稲荷社
当宗神社
当宗神社について
放生橋
放生橋について
応神天皇陵への道
層塔
層塔について
拝殿
拝殿について
安産木
安産木について
恵比寿社
誉田宝殿
誉田林古戦場跡石碑
古墳群跡について
境内図
応神天皇、仲哀天皇、神功皇后を主祭神として祀る。
応神天皇陵に隣接して鎮座している。境内地と応神天皇陵は放生橋で繋がっており、かつては入る事ができたが、現在は立ち入り禁止となっている。
上から見れば前方後円墳であることが分かるのであろうが、下からではただ木が茂っている一角があるというだけである。
559年欽明天皇が応神天皇陵前に神廟が設置されたことが始まりとされる。
もともとは陵墓の前に鎮座していたが、1051年の後冷泉天皇行幸の際に、元の鎮座地から現在地に遷座された。
鎌倉時代から室町時代にかけては源氏の氏神である八幡神を祀る社として信仰を集め、源頼朝は社殿を再興、神輿(現存し国宝指定されている)を寄進、足利義教は、誉田宗廟縁起と神功皇后縁起(いずれも現存し重文指定されている)を奉納している。
現在の社殿は1606年に豊臣秀頼が片桐且元に命じ再建したものである。
拝殿
拝殿
拝殿
中門・本殿
本殿
南大門
放生橋
放生橋
層塔
当宗神社
恵比寿社
恵比寿社
姫待稲荷社
姫待稲荷社
安産木
社務所が閉まる寸前にお詣りしましたが、快く御朱印を書いて頂けました。どうもありがとうございます。
拝殿です。
境内です。
大阪府神社庁の額が飾られていました。
御朱印です。
誉田八幡宮は応神天皇陵古墳の南にあり、応神天皇陵古墳は世界遺産「百舌鳥・古市古墳群-古代日本の墳墓群」の構成資産のひとつです✨
欽明天皇の命で6世紀後半に創建されたと伝えられる日本最古の八幡宮で、主祭神は応神天皇です✋
中世に入ってからは源氏一族の氏神として崇敬されました❗️
1196年には源頼朝が社殿、伽藍を修復しました⛏
本殿と拝殿は1606年に豊臣秀頼によって再建されたものです😃
しかし、完成前に大坂の役で未完成のまま豊臣氏が滅亡し、その後徳川家光が工事を継続させて完成させたと考えられています‼️
誉田八幡宮には国宝があり、今回はこの国宝を見るのが目的でした✨
土曜日の午後だけ拝観できます👓
金銅透彫鞍金具(こんどうすかしぼりくらかなぐ)は1848年に応神天皇陵古墳の陪塚である誉田丸山古墳から出土しました⛏
誉田丸山古墳も世界遺産「百舌鳥・古市古墳群-古代日本の墳墓群」の構成資産のひとつです✨
金銅製の豪華な馬具で、中国北部から朝鮮半島に広がる地域で造られ、日本に持ち込まれたものだそうです🐴
塵地螺鈿金銅装神輿(ちりじらでんこんどうそうしんよ)は神霊が応神天皇陵に渡る際の乗り物です✨
1196年に社殿の修復を行った源頼朝が寄進したもので、現存する神輿の中でも最古級だそうです😊
これらの国宝は見ることができて本当に良かったです✌️
拝殿🙏
南大門👣
放生橋👣
放生橋と八重桜🌸
フジ💠
鳥居⛩
拝観庫✨
聖徳太子御廟所叡福寺から壺井八幡宮、そして最後は誉田八幡宮へお詣りしました。
駐車場から
鳥居の横にあります。
境内案内図
拝殿
放生橋
ここから応神天皇稜へは立入禁止。
放生橋の説明書き。
御朱印
大阪府のおすすめ🍁
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