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誉田八幡宮のお参りの記録一覧
公式大阪府 古市駅

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四季
四季
2022年04月23日(土)560投稿

誉田八幡宮(こんだ八幡宮)

~世界遺産「百舌鳥・古市古墳群」に隣接する唯一神社~

主祭神  応神天皇
     仲哀天皇
     神功皇后
社格等  旧府社
創建   欽明天皇20年(559年)

札所等  
  河内飛鳥古社寺霊場客番

  河内飛鳥古社寺霊場
  客番 住吉大社
  客番 誉田八幡宮

例祭   9月15日

誉田御廟山古墳(応神天皇恵我藻伏崗陵)
の南に隣接して鎮座されます。

御由緒
誉田八幡宮は、応神天皇を主祭神とし、古くから応神陵の近くにあって、御陵祭祀を司ってきました。毎年9月の大祭には神輿が、境内にある太鼓橋を渡って御陵の後円部頂上にあった御堂までお渡りして、盛大な祭礼が続けられてきました。 応神天皇陵と誉田宮のゆかりの深さを物語る神事として知られています。応神天皇の諱(いみな)は、誉田別尊(ほんだわけのみこと)と呼ばれ、現在の羽曳野市誉田にゆかりがあるとされています。 天皇が幼少の頃に居住されていたところであり、この地の誉田真若王の娘、仲津姫を皇后にされたと古記に伝えています。 応神天皇は、皇室系図である「帝記」や宮廷物語である「旧辞」あるいは「古事記」・「百済記」などによって4世紀後半に実在した人であると考えられています。 応神天皇の諱(いみな)は、誉田別尊(ほんだわけのみこと)と呼ばれ、現在の羽曳野市誉田にゆかりがあるとされています。 天皇が幼少の頃に居住されていたところであり、この地の誉田真若王の娘、仲津姫を皇后にされたと古記に伝えています。 応神天皇は、皇室系図である「帝記」や宮廷物語である「旧辞」あるいは「古事記」・「百済記」などによって4世紀後半に実在した人であると考えられています。 大和川、石川の流れる河内地方は、4世紀後半には日本と朝鮮半島と関係の緊張が高まるにつれて、瀬戸内交通の重要性が加わり、一層開発が進んだと考えられます。この機に有力氏族らに支えられた応神天皇は、河内地方を支配して、ここに新王朝を築かれたと思われます。 秦の始皇帝陵などと共に世界でも屈指の大帝王墓-応神陵・仁徳陵-をはじめ、倭の五王時代の天皇陵はほとんどが、この河内、和泉地方につくられています。 応神天皇の崩御に際して御陵がこの誉田の地に築かれたのは、このように天皇ゆかりの地であったことと、4・5世紀代におけるこの地方が、重要な位置を占めていた地理的環境によるものであると考えられます。 また、応神天皇の頃は、大陸、半島からいろいろな文物が導入されて来ました。 中でも当宮に伝わる、応神天皇陵陪塚丸山古墳出土の馬具(金銅製透彫鞍金具)に象徴されるように、当時の金工、木工、革工などの秀れた工芸技術は、後世日本文化の基礎を築くものであったと云えるでしょう。 さて、応神天皇陵と誉田八幡宮のゆかりについては、「誉田宗廟縁起」によると、欽明天皇の勅願によって社殿が建立されたと記すように、かなり古くからのことであったと考えられます。 とくに、この誉田宮をはじめとして、月の岡、日の岡古墳のある若宮八幡宮(福岡県)、各地の大型前方後円墳と神社の縁起や、その関係はさらに古くからのことのようで、今後解明されねばならない問題を秘めているようです。

恵比須社
神馬
姫侍稲荷社
南大門
菅原道真公 御座石
式内 當宗社
国宝:神輿  
 国宝の神輿は源頼朝の寄進
放生橋
誉田林古戦場跡

縁起によると 欽明天皇の命令で応神天皇陵の前に誉田宗廟(こんだそうびょう)の神殿を建立したことがはじまりで、後冷泉(ごれいぜい)天皇の永承6年(1051)に社殿を現在の場所に移したとされています。

平安末期から鎌倉時代にかけて歴代天皇や将軍に守られて、社殿や伽藍などが整備されました。やがて八幡信仰が盛んになるにつれて、源氏を名乗る武士の信仰を集めました。
鎌倉時代には、源氏の氏神である八幡神を祀る社として信仰され、1196年(建久7年)には、源頼朝が社殿、伽藍を修復しました。
しかし、戦国時代になると再三の兵火に見舞われ、社殿や伽藍は焼失しました。現在の本殿や拝殿は、豊臣氏によって再建されたものと言われています。また護国寺も再建されましたが、明治初めの廃仏毀釈により取り壊され、唯一南大門だけが当時を偲しのぶ建物として残っています。
その他、八幡宮には源頼朝寄進の「塵地螺鈿金銅装神輿(ちりじらでんこんどうそうしんよ)」(国宝)や丸山古墳出土の「金銅装透彫鞍金具(こんどうそうすかしぼりくらかなぐ)」(国宝)など貴重なものが数多く収められています。
2019年(令和元年)7月6日、応神天皇陵古墳・仁徳天皇陵古墳をはじめとする49基の墳墓群「百舌鳥・古市古墳群」が世界文化遺産に登録されました。

~・~・~・~

なにわ馬のはなし

ある晩のこと、一人の男が孫の誕生を祝っておとずれた娘の嫁ぎ先からの帰り道、たまたま通りかかった応神陵のかたわらで、馬に乗った人に出会った。月明かりに照らされたその人の馬をみると、何ともすばらしいすがたかたちをした赤い馬であった。自分の乗っている馬と比べるとはるかに足も速く、男は自分にもこんな馬が欲しいものだと願った。するとその赤い馬に乗った人は男の願いを察してか、お互いの馬を取りかえてもよいと言う。男は大喜びで赤い馬に乗って家に帰ると、大切な馬をうまやにつなぎ、まぐさを与えて床についたのであった。 さて次の日の朝のこと、男が昨晩手に入れた赤馬のすがたを、あらためて確かめようとうまやに行ってみると、どうしたことか、そこにはくだんの駿馬にかわって土でつくった馬が立っていた。不審に思った男が昨夜馬を交換した応神陵へ行くと、陵に立つ土の馬の間に、赤い馬と取りかえたはずの自分の馬が立っていたのだった。 奈良時代の歴史書である日本書紀に、応神天皇の六代後の雄略天皇の頃の話として伝えられている、応神陵にまつわる不思議な物語です。

他に中国の民話でこのような話の類話を読んだ覚えもあります。向こうには埴輪はありませんので、陶器の馬だったり人形だったりします。
第15代天皇である応神天皇は、神功皇后(臺與)の息子であり、第26代天皇である継体天皇の5代前の祖父に当たります。この応神天皇も、邪馬台国(越前)に居たことを裏付ける記述があります。 古事記によれば応神天皇の御代(270~312年)に百済から韓鍛冶(からかぬち)卓素が来朝したとあり、鉄加工の渡来人たちを招聘したことになっています。この時代、近畿地方は鉄文化の後進国であり、鉄加工品の出土はほとんどありません。それに対して邪馬台国(越前)は、三世紀から五世紀において、日本最大の鉄加工品の産地になっています。
卑弥呼・臺與(神功皇后)・ 応神天皇(神功皇后の息子) と捉えれば納得します。

十五年秋八月壬戌朔丁卯、百濟王遣阿直伎、貢良馬二匹。卽養於輕坂上厩、因以、以阿直岐令掌飼、故號其養馬之處曰厩坂也。阿直岐、亦能讀經典、卽太子菟道稚郎子師焉。於是天皇問阿直岐曰「如勝汝博士、亦有耶。」對曰「有王仁者、是秀也。」時遣上毛野君祖荒田別・巫別於百濟、仍徵王仁也。其阿直岐者、阿直岐史之始祖也。

~・~・~・~

伊勢神宮の「外宮」を参拝された秋篠宮ご夫妻は翌22日、奈良県の神武天皇陵や京都府の明治天皇陵などを参拝されました。
公式ではなくプライベートでのお参りとのことだそうです。
宮内庁職員の方が、「御陵は天皇の体、神社は神様の精神をお祀りされる。」
また、誉田八幡宮神職さまより、「中国の騎馬乗馬を日本に広められたのが応神天皇ということで特別な神馬です。」
が、心に響きました。

応神天皇御陵
(誉田御廟山古墳)
八幡信仰
東高野街道

大阪府羽曳野市誉田3丁目2-8

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旅好き
旅好き
2021年05月17日(月)15投稿

誉田八幡宮は応神天皇陵古墳の南にあり、応神天皇陵古墳は世界遺産「百舌鳥・古市古墳群-古代日本の墳墓群」の構成資産のひとつです✨
欽明天皇の命で6世紀後半に創建されたと伝えられる日本最古の八幡宮で、主祭神は応神天皇です✋
中世に入ってからは源氏一族の氏神として崇敬されました❗️
1196年には源頼朝が社殿、伽藍を修復しました⛏
本殿と拝殿は1606年に豊臣秀頼によって再建されたものです😃
しかし、完成前に大坂の役で未完成のまま豊臣氏が滅亡し、その後徳川家光が工事を継続させて完成させたと考えられています‼️

誉田八幡宮には国宝があり、今回はこの国宝を見るのが目的でした✨
土曜日の午後だけ拝観できます👓
金銅透彫鞍金具(こんどうすかしぼりくらかなぐ)は1848年に応神天皇陵古墳の陪塚である誉田丸山古墳から出土しました⛏
誉田丸山古墳も世界遺産「百舌鳥・古市古墳群-古代日本の墳墓群」の構成資産のひとつです✨
金銅製の豪華な馬具で、中国北部から朝鮮半島に広がる地域で造られ、日本に持ち込まれたものだそうです🐴

塵地螺鈿金銅装神輿(ちりじらでんこんどうそうしんよ)は神霊が応神天皇陵に渡る際の乗り物です✨
1196年に社殿の修復を行った源頼朝が寄進したもので、現存する神輿の中でも最古級だそうです😊
これらの国宝は見ることができて本当に良かったです✌️

誉田八幡宮の本殿・本堂

拝殿🙏

誉田八幡宮の山門・神門

南大門👣

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nahi
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2017年09月03日(日)222投稿

「位は桃井、技は千葉、力は斎藤」と並び称され、幕末の江戸における三大道場のひとつとして鏡新明智流の士学館という場所があった。武市半平太が岡田以蔵ら自身の弟子を伴って入門し、特に武市は塾頭に任命されたことで知られる。
 桃井春蔵直正はこの頃の館主で、元は沼津藩の出である。幕末という時代の変わり目は、彼を江戸の剣術道場主で終わらせることはなく、やがて幕府の遊撃隊に加わり、徳川慶喜の上洛に警護役として伴う。玉造に臨時に開かれた講武所で幕府高弟を相手に剣術を指南する。ところが、 鳥羽・伏見の戦いについて反対したことから幕府軍幹部からにらまれ、弟子と共に南河内へ逃亡する。これが本日向かった古市という町で、行政上は羽曳野市になる。

桃井春蔵は、明治維新後、没するまでこの誉田八幡宮の祠官として務めている。また、境内には「誉田林古戦場跡」の碑もあり、古来から数々の合戦の舞台になったことを偲ばせてくれる。特に、大坂夏の陣の際に、豊臣方の武将であった薄田隼人正兼相がここに陣を敷き道明寺へ出撃し戦死している。墓は近くにある誉田史跡公園内にあるそうだが、雨が強くなりこちらは見に行けなかった。

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ana11692
ana11692
2024年12月19日(木)324投稿

大阪府羽曳野市の誉田八幡宮(こんだはちまんぐう)と應神天皇 惠我藻伏崗陵(えがのもふしのおかのみささぎ)にご参拝させていただきました☺️(五芒星巡り以来です)

①当宗神社(まさむねじんじゃ)
ご祭神
素戔嗚尊(すさのおのみこと)さま
山陽公さま
(式内社)(境内末社)
②ご本殿
ご祭神
中座 誉田別尊(ほむたわけのみこと)さま
   應神天皇(おうじんてんのう)さま
右座 神功皇后(じんぐうこうごう)さま
左座 仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)さま
(旧府社)
③應神天皇 惠我藻伏崗陵(えがのもふしのおかのみささぎ)拝所

それぞれで 畏かしこみ畏かしこみ身滌大祓(みそぎのおおはらい)をご奏上させていただきました☺️

いつもながら境内はスカーっとした空気で広々としてとても気持ちがよくて 改修築の終わられた拝殿も堂々としてやはりこの神社が大好きなんだなぁと思いました☺️

祝詞の途中 紙垂しでが揺れて風の動きを感じることができました。歓迎いただけましたでしょうか。きょうも空にはたくさんの龍神さまの雲があって 天空からずっと見守っていただいているように感じました🐉 ありがたいことです😊

精進して また つぎも ご参拝させていただけますように☺️

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