ふじいでら
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葛井寺ではいただけません
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葛井寺のお参りの記録(1回目)
投稿日:2024年07月16日(火)
参拝:2024年7月吉日
西国三十三所巡りでお参りしました。
街道から少し内側に入った 住宅地というか商業地というか まあまあ細い道を通り 専用ではないコインパーキングに車を停めました。
由緒のある寺院でも さすがに駐車場完備というわけにはいかないようです。大阪では。
立派な朱塗りの仁王門が見事です。
仁王門をくぐると 目の前にこれまた立派な本堂が現れます。
古い建物だというのは分かりますが 傷んでいる部分がわかりません。
とても大切に守られてきたということですね。素敵です。
左手に工事中の建物が・・・護摩堂でしょうか。かなり大きな工事です 参拝できるのはいつになるのでしょうか。
境内には立派な松がありました。看板によると 楠木正成公にゆかりのある松のようです。
松ってそんなに長命だったのでしょうか。驚きです。
工事の音は気になりましたが 素敵な空気を味わって 仁王門から出ることができました。
山号は紫雲山 宗旨宗派は真言宗御室派 ご本尊は十一面千手千眼観音菩薩(国宝)
創建年は神亀2年(725年) 開山は行基 開基は聖武天皇(勅願)です。
由緒については
寺伝によると聖武天皇より古子山葛井寺の勅号を得たとされている。
別説では元々は葛井連の氏寺であったとされている。
葛井連の前身である白猪氏は 『日本書紀』によれば 吉備国の白猪屯倉の田部の丁を定めた功績により白猪氏の姓を賜ったとされている。
奈良時代の養老4年(720年)に白猪氏は葛井連(ふじいのむらじ)に改姓しており 葛井寺は 一族の葛井連広成が創建したとされている。
また 葛井一族からは大安寺僧である慶俊が出ている。
大同元年(807年)にの葛井氏の出身である藤子(葛井連道依娘)と平城天皇の間に生まれた皇子である阿保親王によって再建された。
また阿保親王の皇子である在原業平が奥の院を造営した。
中世以前の沿革については史料が乏しく、必ずしも明確でないが、本尊千手観音坐像は奈良時代の作品であり、境内から奈良時代の古瓦が出土することなどから、創建が奈良時代・8世紀頃にさかのぼることは間違いない。
永長元年(1096年)には 大和国賀留の里の住人・藤井安基が 荒廃した伽藍を修理したと伝える。
境内出土の瓦の1つに久安3年(1147年)の銘があり その頃に造営事業が行われたことが推定される。
平安時代後期から観音霊場として知られるようになり 西国三十三所観音霊場が成立すると その一つに数えられるようになった。
とありました。
街道から少し内側に入った 住宅地というか商業地というか まあまあ細い道を通り 専用ではないコインパーキングに車を停めました。
由緒のある寺院でも さすがに駐車場完備というわけにはいかないようです。大阪では。
立派な朱塗りの仁王門が見事です。
仁王門をくぐると 目の前にこれまた立派な本堂が現れます。
古い建物だというのは分かりますが 傷んでいる部分がわかりません。
とても大切に守られてきたということですね。素敵です。
左手に工事中の建物が・・・護摩堂でしょうか。かなり大きな工事です 参拝できるのはいつになるのでしょうか。
境内には立派な松がありました。看板によると 楠木正成公にゆかりのある松のようです。
松ってそんなに長命だったのでしょうか。驚きです。
工事の音は気になりましたが 素敵な空気を味わって 仁王門から出ることができました。
山号は紫雲山 宗旨宗派は真言宗御室派 ご本尊は十一面千手千眼観音菩薩(国宝)
創建年は神亀2年(725年) 開山は行基 開基は聖武天皇(勅願)です。
由緒については
寺伝によると聖武天皇より古子山葛井寺の勅号を得たとされている。
別説では元々は葛井連の氏寺であったとされている。
葛井連の前身である白猪氏は 『日本書紀』によれば 吉備国の白猪屯倉の田部の丁を定めた功績により白猪氏の姓を賜ったとされている。
奈良時代の養老4年(720年)に白猪氏は葛井連(ふじいのむらじ)に改姓しており 葛井寺は 一族の葛井連広成が創建したとされている。
また 葛井一族からは大安寺僧である慶俊が出ている。
大同元年(807年)にの葛井氏の出身である藤子(葛井連道依娘)と平城天皇の間に生まれた皇子である阿保親王によって再建された。
また阿保親王の皇子である在原業平が奥の院を造営した。
中世以前の沿革については史料が乏しく、必ずしも明確でないが、本尊千手観音坐像は奈良時代の作品であり、境内から奈良時代の古瓦が出土することなどから、創建が奈良時代・8世紀頃にさかのぼることは間違いない。
永長元年(1096年)には 大和国賀留の里の住人・藤井安基が 荒廃した伽藍を修理したと伝える。
境内出土の瓦の1つに久安3年(1147年)の銘があり その頃に造営事業が行われたことが推定される。
平安時代後期から観音霊場として知られるようになり 西国三十三所観音霊場が成立すると その一つに数えられるようになった。
とありました。
すてき
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くるくるきよせん2022投稿
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