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ひねじんじゃ

日根神社の御由緒・歴史
大阪府 日根野駅

ご祭神《主》鵜葺草葺不合尊,玉依比売命
ご由緒

 紀元前663年、鸕鷀草葺不合尊(ウガヤフキアヘズノミコト)と玉依姫(タマヨリヒメ)の四皇子の末子、神日本磐余彦尊(カムヤマトイハレビコノミコト)は、日本の建国を決意して長兄の五瀬命と共に日向を発し、河内から大和へ入ろうとしましたが長髄彦(ナガスネヒコ)の激しい抵抗に遭いました。
 磐余彦尊は「日の御子である自分が太陽に向かって戦うのが良くないに違いない。」と悟り、日を背に受けて紀伊から大和に進もうと、難波津から舟で嘉祥寺という所にお着きになりました。そこから弓を引くと長滝村(現在の御旅所)に落ち、そこから再び弓を引くと現在の日根神社の場所に落ちました。
 その広野に根城を構え、鸕鷀草葺不合尊と玉依姫を祀り、日の国を治める天照大神(アマテラスオオカミ)と、根の国を治める素戔嗚尊(スサノオノミコト)に戦勝を祈願しました。
 こうして長髄彦を平らげた磐余彦尊は、樫原に宮を定めて初代天皇(神武天皇)となられました。
 このとき御先祖を祀り戦勝を祈願された地は、太陽の出る根の意から日根と云い、日の神と根の神をお祀りした野原から日根の野、日根野と呼ばれるようになりました。

 仲哀天皇2年(192年)、白翁が大鳥に姿を変え日根野の空を数日にわたり飛び続け「我は鸕鷀草葺不合尊である。ここに祠を建てなさい。」と仰いました。
 次いで女神が現れ「我は玉依姫命である。ここに共に祀りなさい。」と仰いました。
そこで村人が力を合わせて祠を作り、この2神をお祀りしたのが始まりであるとされています。

 白鳳元年(673年)、神鳳が大鳥の郷(現在の堺市)の空に現れ「我は天照大神である。この地に五社大明神を祀りなさい」と仰いました。
 そこで天武天皇は白鳳2年(674年)、大井関山に社殿を造営し、大鳥大社より御分霊を勧請したのが大井関大明神(日根神社)であると云われています。

 霊亀2年(716年)に制定された和泉国五大社の一つに数えられ、摂社の比売神社と共に延喜式内社に列します。

歴史
歴史[編集] 創建の時期は明らかではないが、社伝によると神倭伊波礼毘古命による東征の際、命が河内から大和に入る時に長髄彦と戦い、敗れた。その際に野原が広がる当地まで退却した命はここで「日」(天)の神である天照大御神と「根」(黄泉)の神である須佐之男命を祀った所、戦に勝って大和を平定した。それによりこの地を「日根野」と名付け、社名は日根神社とされたとする。 霊亀2年(716年)に制定された和泉五社のうちに数えられており、延喜式内社日根郡十座のうちに列せられていることから、1200年以上前であると考えられる。天武天皇2年(673年)には境内に隣接して神宮寺の無辺光院(現・慈眼院)が建立されて...Wikipediaで続きを読む
引用元情報日根神社」『ウィキペディア日本語版』。
この版のURL:https://ja.wikipedia.org/w/index.php?%E6%97%A5%E6%A0%B9%E7%A5%9E%E7%A4%BE&oldid=97912969

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