浄土宗
一運寺のお参りの記録一覧
金龍山 一運寺(いちうんじ)
△▼△飛鳥への小径 赤穂義士之寺▼△▼
山号 金龍山 一運寺
宗旨 浄土宗
御本尊 薬師如来尊像
聖観世音菩薩
開創 聖徳太子
当寺の始まりは、聖徳太子は四十二歳の時、この地に自らの厄払いの為もあり七堂伽藍を建て磯長山転法輪寺と名付けられました。
法然上人は建永の法難(1207)により讃岐の国に流罪となられまたが、その年赦免され都に帰る途中、嵐に遭われ泉州岸和田へ漂着、船が住吉まで流された。船の修理する間(五月から十二月頃までと思われる)上人は当寺に長くご滞在されご説法された。法然上人当時七十五歳の時である。
その時残された御歌が
「 ゆきめぐる 山路も里も 吉水の
清き流れの つきじとぞおもふ 」
である。
(吉水とは知恩院周辺地域の呼び名であり、
そこから脈々とつづくお念仏の教え。)
※建永の法難
法然上人率いる念仏集団が、既存仏教団より弾圧され、後鳥羽上皇によっても専修念仏の停止と、法然上人の門弟四人の死罪、法然上人と親鸞聖人ら中心的な門弟七人が各地へ流罪に処された事件。
大阪住吉は赤穂義士との縁も深く、一運寺境内には赤穂義士四十七士の内、大石父子と寺坂吉右衛門の三基の墓所があります。
一運寺山門由来
金龍山 一運寺の山門は、明治天皇側室・若菜局(津守好子)に由来し、また大阪文学を代表する作家・藤沢恒夫ゆかりの門でもある。
元は旧橋本左膳太夫(住吉大社神人家)邸の門を若菜局邸に転用したものと伝わる。
明治天皇側室の津守好子(住吉大社第七十四代宮司津守国美の令嬢)は、明治天皇の崩御によって住吉に帰郷、その隠居生活のため住吉別邸が津守家により建てられ、その門に旧橋本左膳太夫邸のものが転用された。若菜局の隠居邸として威儀を正した佇まいであった。
大正七年、津守好子の卒去の後、所縁あって大阪文学を代表する作家・藤沢恒夫がその屋敷を譲り受けるところとなり、長く藤沢文学を見守り続けた。その後、藤沢邸が取り壊されることとなりその工事を請け負った棟梁が時の一運寺の総代であった。当時一運寺は地震倒壊により山門がない状態であった。そこで藤沢邸の門を一運寺の山門として移転したのである。
津守好子
大正七年四月二十四日没
「 國のため みをすてましし
君なれは うえこそ神と
いつかれにけれ 」
~境内説明板より~
大阪市住吉区住吉2丁目6-23
南海高野線・住吉東駅西へ徒歩5分
阪堺線・住吉駅東へ徒歩5分
法然上人御歌
「 ゆきめぐる 山路も里も 吉水の
清き流れの つきじとぞおもふ 」
年末ということとこちらの貼紙により、お声掛けは控えさせて頂きました
またお参りさせて下さい
飛鳥への小径
🪷 住𠮷大社 Fabulous 🪷🐈⬛🌎💐🪷🐺🌈
一運寺、荘厳浄土寺、浄光寺(油地蔵尊)、西之坊、ちぎり地蔵尊 哀愍寺、東福寺、宝泉寺、四天王寺
12/14 9寺社お参りさせて頂きました
住吉大社裏手の坂にある一運寺へ。ここには大石内蔵助と息子の大石主税、従者の寺坂吉右衛門の墓があります。もともと一運寺と彼らには何の縁もありません。ここから少し離れたところに龍海寺という寺がかつて存在し、この3人だけでなく47人全員の墓が並んでいたそう。なぜなら、赤穂浪士の支援者であった天野屋利兵衛の菩提寺がこの龍海寺だったからです。明治維新後、寺は廃寺になってしまい墓も消滅する危機にあいます。それを救ったのが当時の一運寺の住職で、最後まで残っていた3人の墓を移設し供養したと伝えられています。なお、討ち入りと同時期に、天野屋利兵衛は三文字屋という旅館で幕府の役人相手に大捕物を演じていますが、この三文字屋は現在の住吉警察署あたりにあったそうです。
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