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久本寺ではいただけません
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久本寺のお参りの記録(1回目)
投稿日:2017年09月03日(日)
参拝:2015年10月吉日
谷町八丁目にある久本寺へ。ここは『あさが来た』の山王寺屋こと、江戸時代に大坂で両替商として栄えた「天王寺屋」の菩提寺です。創設者の天王寺屋五兵衛は1623年(元和9年)に、現在の住吉区の、大和川のほとりにある遠里小野で生まれました。本名を大眉光重といいます。父である吉左衛門が北浜の今橋に進出し、いまの開平小学校が建っている付近に土木工事請負の店を構えたのが天王寺屋の嚆矢です(こちらも参照。→「天五に平五 十兵衛横町」https://www.facebook.com/hiroaki.nagayama/posts/1034831983227779)。吉左衛門はほどなく病死してしまうのですが、光重は両替商に転じて成功します。当主は代々五兵衛を名乗り、今橋で数百年を豪商として栄華を極めました。
しかし、江戸から幕末にかけて諸藩への大名貸しや御用金徴発で大坂のほとんどの豪商が衰退。天王寺屋も例外ではなく、時代の趨勢には勝てず没落し、さらに家系が断絶してしまい現在子孫はいません。境内に入ると、本堂前にある灯篭が目につきます。これは天王寺屋が寄進したもので、基壇に刻まれた名前が残ります。奥には一族の墓があります。創立者である天王寺屋五兵衛や、彼の両親の墓がありました。なお、白蛇はんや今井はつこと三井春さんの墓がここにあるのかは分からなかったです。
しかし、江戸から幕末にかけて諸藩への大名貸しや御用金徴発で大坂のほとんどの豪商が衰退。天王寺屋も例外ではなく、時代の趨勢には勝てず没落し、さらに家系が断絶してしまい現在子孫はいません。境内に入ると、本堂前にある灯篭が目につきます。これは天王寺屋が寄進したもので、基壇に刻まれた名前が残ります。奥には一族の墓があります。創立者である天王寺屋五兵衛や、彼の両親の墓がありました。なお、白蛇はんや今井はつこと三井春さんの墓がここにあるのかは分からなかったです。
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