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ささむたじんじゃ

西寒多神社の御由緒・歴史
大分県 大分大学前駅

ご祭神《主祭神》
 西寒多大神
《配祀神》
 月読大神 
 伊弉諾大神
 伊弉冊大神
 大直日大神
 神直日大神
 八意思兼大神
 大歳大神
 倉稲魂大神
 軻遇突智大神
ご神体本宮山(西寒多山)
創建時代応神天皇九年
創始者武内宿禰
ご由緒

社殿によると、神功皇后が三韓に兵を進めて帰陣の際、本宮山に行幸し、四方の国々をご覧になり、そこに一本の白旗を御建てになり御帰りになられた。残された白旗を人々が敬い瑞垣を結び聖地として崇められるようになったとされる。やがて、応神天皇の御代になり、武内宿禰に勅を奉じになられ、応神天皇九年宮殿の建立に当たった。これが西寒田神社の始まりとされる。
さらに、藤原鎌足が百済救済のため豊前の国仲津郡まで来た際、霊夢のお告げにより西寒田神社に参拝し、老朽化した社殿を修築、太刀一振りと八幡舞面を奉納している。869年(貞観11年には朝廷より神階「従五位下」が授けられ『延喜式神名帳』で豊後の国唯一の式内大社とされた。
以後、大友家歴代からの尊崇を集めた。特に大友家第十代大友親世は社殿を現在の地へ遷座を行うなど崇敬を熱くしていたとされている。江戸時代になると「豊後国一宮」として称されるようになり、1871年(明治4年)には、「国幣中社」に列格。その後、社格制度の廃止に伴い「別表神社」として氏子・崇敬者の尊崇を受けている。

歴史
歴史[編集] 本宮山 創建[編集] 「大分郡志」によれば、神功皇后が三韓征伐からの帰途、西寒多山(現 本宮山)に臨幸し、その証として山頂に白旗を立てたという。当地の人々はこれを崇敬して籬垣を結んで拝んでいた。その後、応神天皇9年4月、武内宿禰が本宮山上に祠を建てたのが創祀であるという[1]。 この伝承から、当社は本宮山を神体山として成立したと見られている[2][1]。 概史[編集] 国史の初見は、『日本三代実録』貞観11年(869年)3月22日条の西寒多神に従五位下を授けるという記述である。『延喜式』神名帳では豊後国大分郡に「西寒多神社」と記載され、豊後国では唯一の大社に列した。また...Wikipediaで続きを読む
引用元情報西寒多神社」『ウィキペディア日本語版』。
この版のURL:https://ja.wikipedia.org/w/index.php?%E8%A5%BF%E5%AF%92%E5%A4%9A%E7%A5%9E%E7%A4%BE&oldid=102020479

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