えいりょうじ|浄土宗
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北越戦争を広く調べる中で、やはり欠かすことの出来ない河井継之助をはじめ小千谷談判に同席した二見虎三郎らが眠るこの地。
足を運ぶだけでも、当時生きた彼らのオーラを墓参りした際に感じずにはいられません。
栄涼寺本堂です。北越戦争では、新政府軍の野戦病院として利用されました。
長岡藩軍事総督河井継之助の墓です。長岡城再落城の後に会津若松へ向かう道中、負傷した傷が悪化して慶応4(1868)年8月16日に只見で亡くなりました。河井を焼骨した後、当初は会津若松市にある建福寺に埋葬され、従僕の木川松蔵の尽力により栄涼寺に移されています。継之助の墓は他の人と異なり、明らかに削れています。これは、北越戦争を引き起こした張本人として、町民らが鍬や石などで叩いた事により出来たとされています。
北越戦争終戦後長岡の復興に尽力した功労者の1人である三島億二郎の墓です。当初北越戦争に反対していたものの、継之助の覚悟を知り従う事を決意。北海道の開拓にも尽力し、幅広く活躍しています。
大目付二見虎三郎の墓です。小千谷談判に唯一同席した長岡藩士で、剣の腕前も藩随一だったとされています。小千谷談判での交渉決裂後、小千谷市内にある東忠にて、河井継之助と遅い昼食を取り、詩を吟じながら酒を嗜んだ逸話もあります。河井継之助亡き後は、会津に舞台を移し奮戦するも七日町口の戦いで負傷しその傷がもとで、山形にて亡くなっています。近年発見された肖像は、長州征伐時に撮影されたものと言われている。(慶応2(1866)年、撮影時31歳)
名称 | 栄凉寺 |
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読み方 | えいりょうじ |
電話番号 | 0258-32-2747 お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。 |
詳細情報
宗旨・宗派 | 浄土宗 |
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ご由緒 | 元和5(1619)年、長岡藩に移封された牧野忠成が開いたと言われています。
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