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まのぐう

真野宮の御由緒・歴史
新潟県 弥彦駅

ご祭神《主》順徳天皇
《配》菅原道真,日野資朝
ご神体順徳天皇火葬塚
創建時代明治七年(1874)
ご由緒

真野宮はもと真輪寺といって、国分寺末寺であったため御火葬塚の直接の管理をしていました。明治元年廃仏毀釈により寺僧は神職となり、本堂を改修し宮とし、明治7年県社に認められ「真野宮」と改称しました。現在の社殿は大正9年の竣工で、昭和17年の700年祭には、鳥居、神橋、神門、社務所を新設して参道を広げ神域の拡張されました。社宝として、順徳天皇御遺品と伝える短刀、硯、扇子、釣花生などが残っていますが、ご神体とされていた順徳天皇の木像は、明治7年、後鳥羽天皇とともに御祭神となっている大阪府の水無瀬神宮にご遷幸されました。今は御霊代として明治天皇御下賜の御剣が奉安されています。
 順徳天皇は後鳥羽天皇の第3皇子として、建久8年(1197)ご誕生され、承元4年(1210)14歳で即位につかれ、第84代の天皇となられました。文武両道に優れ、著書も多く和歌にもすぐれていて、「順徳院御百首」一巻は佐渡在島中に詠まれたものです。又、日本人なら殆どの人が知っている、小倉百人一社の中でも覚えやすく一番有名な『ももしきや 古き軒端の忍ぶにも なほあまりある むかしなりけり』は、此の順徳天皇の創られた歌です。
 承久の乱は、かねて源頼朝が諸国に守護地頭を置いて、政権を幕府が掌握していることを憂憤された後鳥羽上皇の発願によるもので、鎌倉幕府は、実朝が殺され源氏の血統は絶えたにもかかわらず、北条氏は幼少の将軍を立てて執権となっていたので、義時追討の院宣が下されました。そこで順徳天皇は承久3年(1221)に位を皇太子懐成親王(仲恭天皇)に譲り、父後鳥羽上皇と北条義時追討の兵を挙げましたが敗れ、24歳の若さで佐渡に配流となりました。在島22年、ついに帰京の願いはかなわず、46歳の時絶食して真輪寺(現在の真野宮)「阿弥陀堂」で崩御されたと伝えられています。

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