にうかわかみじんじゃ(なかしゃ)
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丹生川上神社(中社)ではいただけません
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丹生川上神社(中社)のお参りの記録(1回目)
投稿日:2020年03月08日(日)
参拝:2020年3月吉日
《二十二社詣りその20》
東吉野村にある丹生川上神社です。
お話を伺った神職様によると、鎮座地は神武天皇が東征の際に戦勝を占った地とされ、天武天皇の675年に罔象女神(みづはのめのかみ)を摂社:丹生神社の地に奉斎し、後に現在地に遷座したそうです。
(罔象女神は伊邪那美神より生まれた水の神です)
天皇の御幸の際は蟻の列のように人が連なることから当社周辺の地を「蟻通」と呼び、いつしか当社は「蟻通神社」と呼ばれるようになったとか。
ところが、平安京への遷都からしだいに朝廷との疎遠化が進み、長い年月の間に丹生川上神社の所在地が不明となってしまいます。
江戸時代に下社が丹生川上神社と比定され二十二社の一社として遇されていましたが、明治に入り下社は過去の記録との整合性に欠けるとの指摘により、上社と合わせて二社で丹生川上神社とされました。
しかし、後に郷土史の研究等により当社が二十二社の一つ丹生川上神社であることが突き止められ、大正11年の内務省告示をもって上社・下社は中社に包括されることとなりました。こうして丹生川上神社は三社となり、当社から神職の方々が上社・下社まで出向き奉仕した時期があったそうです。
東吉野村にある丹生川上神社です。
お話を伺った神職様によると、鎮座地は神武天皇が東征の際に戦勝を占った地とされ、天武天皇の675年に罔象女神(みづはのめのかみ)を摂社:丹生神社の地に奉斎し、後に現在地に遷座したそうです。
(罔象女神は伊邪那美神より生まれた水の神です)
天皇の御幸の際は蟻の列のように人が連なることから当社周辺の地を「蟻通」と呼び、いつしか当社は「蟻通神社」と呼ばれるようになったとか。
ところが、平安京への遷都からしだいに朝廷との疎遠化が進み、長い年月の間に丹生川上神社の所在地が不明となってしまいます。
江戸時代に下社が丹生川上神社と比定され二十二社の一社として遇されていましたが、明治に入り下社は過去の記録との整合性に欠けるとの指摘により、上社と合わせて二社で丹生川上神社とされました。
しかし、後に郷土史の研究等により当社が二十二社の一つ丹生川上神社であることが突き止められ、大正11年の内務省告示をもって上社・下社は中社に包括されることとなりました。こうして丹生川上神社は三社となり、当社から神職の方々が上社・下社まで出向き奉仕した時期があったそうです。
御朱印
川沿いの道を進むと開けた場所が視界に入ります。そこが丹生川上神社です。
目の前を流れる高見川
三つの川の合流地であり奥には滝もあります。水神の鎮まる地にふさわしく水が集まる場所です。
三つの川の合流地であり奥には滝もあります。水神の鎮まる地にふさわしく水が集まる場所です。
龍神の滝
摂社:丹生神社(重要文化財)
旧社殿地
旧社殿地
神武天皇聖蹟の碑
二の鳥居
境内
ご由緒書
手水舎
手水鉢
拝殿
本殿への階段
なでふくろう
御神木:叶大杉
山深く木々に包まれた地ですね…。
拝殿
相生の杉
左:東照宮、右:水神社
高見川は吉野川を経て紀の川へ流れ込むことから、江戸時代は紀州藩の勢力圏であったそうです。
高見川は吉野川を経て紀の川へ流れ込むことから、江戸時代は紀州藩の勢力圏であったそうです。
末社:大盛丸神社
末社:木霊神社(祭神:五十猛命)
伊太祁曽神社から勧請して祭祀
伊太祁曽神社から勧請して祭祀
神職様によれば、ここには離宮があり平城京から天皇の御幸が度々あったそうです。「蟻通」の由来など貴重なお話をたくさん伺いました。
すてき
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