曹洞宗
天正寺のお参りの記録一覧
新潟遠征予定日2日前に妻の父が安らかに逝去し、遠征を中止しました。天正寺さんで通夜、葬儀をさせて頂きました。
大町地方周辺を治めていた仁科一族の居住跡地に建てられた由緒あるお寺です。
住職と副住職のありがたいお話を賜り、とても丁寧な対応をして頂き、本当にありがたい気持ちに包まれて義父を旅立たせることができました。
天正寺では、黒部ダム建設時に亡くなられた171名の遺体を本堂廊下に安置して、遺族が引き取りに来る際に炊き出しをして出迎えたそうです。
『天正寺の歴史』
戦国時代武田家「風林火山」の滅亡の歴史の中に生まれたのが天正寺の歴史の始まりです。天正寺の寺域は鎌倉時代末頃から戦国時代末までおよそ三百年、信濃の名族仁科氏歴代の居館として住まわれた場所です。初めは現在の大町市社の館之内にいた仁科氏が、仁科の拡大に伴い、鎌倉時代末期に現在の大町市天正寺地域に居館を移したとされています。
仁科氏最後の城主であった盛政は武田信玄、上杉謙信が信濃各地で戦っていた頃、武田信玄に従い、佐久・小県地方を転戦していました。この時、留守役の家臣達が上杉方からの誘いに乗り、武田氏に抵抗の姿勢をとった為、武田氏に攻略され、仁科盛政は甲斐に連れ去られ殺されたと伝えられています。これにより仁科氏は五百年の歴史を閉じたのですが、その後の安曇地方を安定させる為に信玄の五男晴清に仁科家の名跡を継がせ、『信濃の国』に歌われている仁科五郎盛信と名乗らせたと言われます。
しかし、天正十年(1582)の春、織田信長が信濃に侵攻してきた為、盛信はこれに対抗し 伊那の高遠城に籠もって潡しく戦い、壮烈な死を遂げました。その後天正十二年頃居館跡に仁科家の菩提を弔う為創建されたのがこの天正寺です。なお、創建当時の天正寺の建物は現在の南原町にあった仁科氏祈願寺の『長松院』を移築したものであり、『六角堂』と言われる『観音堂』だけを残しこの寺の建物を居館跡に移したと言われています。仁科氏最後の城主仁科盛政の法号「青竜寺殿」から山号を、時の年号から寺名をとって『青竜山天正院』と名づけられたものです。
この地図は慶安二年(1649年)に記された天正寺の寺領地図です。色彩で示された場所が天正寺の寺領です。現在の大町西公園を含め、他にも天正院にかかわる大念寺、六角堂等、新切村(現高根町)に開墾田畑などがありました。
明治初頭まで続いた寺領は、廃仏毀釈により多くを失いました
江戸から明治に変わる混乱の時 松本藩では廃仏という寺打ち壊しが行われる悲しい歴史がありました。しかし、曹洞宗大本山永平寺六十一世環渓禅師(かんけいぜんじ)と歴代住職、檀信徒の尽力により廃仏にあった寺は、復興され『天正院』から『天正寺』として歴史が始まりました。今は、大本山永平寺直末(じきまつ)という貴重な御縁により結ばれております。現在、多くの檀信徒の人々と仏縁を結び、仏教の教えをお伝えしております。
《曹洞宗 永平寺直末 古城林 青龍山 天正寺》
慶安ニ年(1649年)記された天正寺の寺領図
本堂周辺図
天正寺の歴史
石碑 仁科城跡 (犬養毅書)
参道から山門
山門 棟札から元禄元年(1688年)
寄進
山門の扁額
参道から本堂
花手水鉢
手水鉢の龍
本堂
本堂
お堂(歴代住職の位牌等の安置)
坐禅堂
寺務所内の掛け軸
本堂内の寺額
本堂内
本堂内龍🐉の彫刻
(大町在住檀家の彫刻家が寄進)
本堂内 籠 (統治していた大名等が使用した物か?)
本堂内 籠
鐘楼
慈香観世音
永代供養塔
永代供養石碑
イチョウと仁科城跡石碑
本堂前から振り返り
庭
庭の滝
(ドウダンツツジ等のこうよう)
大町市マンホール(雷鳥)
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