曹洞宗
全久院のお参りの記録一覧
松本駅から東に1キロに位置するこの寺は、市街地の住宅地の中にあります。
寛永十年(1633年)松本城主の戸田家は松本を離れ、再び全久院が松本に戻るのは享保十年(1725年)、六代戸田光慈(みつちか)が三重県鳥羽より封任されるときです。松本市本町春了寺跡に全久院が建立され、二一世明極即証大和尚を再興開山としました。
二二世是妙不伝大和尚は叢林、つまり修業のための道場を開き、全国九ヶ寺の叢林の中でも厳しい道場として有名でした。二七世端岡珍牛大和尚は永平寺開山道元禅師の絵巻を自筆で版を起こし、永平寺高祖行状記二冊を出版したほどの禅画の大家でした。
三二世雲生洞門大和尚は大本山総持寺独住第一世となられた奕堂禅師ほか、多くの弟子の師として聞こえが高かったのです。
九代目戸田光則(みつさだ)は明治ニ年版籍奉還後、松本藩知事となり、明治四年天皇の即位に伴い、神道を国の基礎として仏教を廃する廃仏毀釈を断行。松本藩内の全寺院を廃し、僧侶にも還俗を強制しました。菩提寺である松本全久院を真っ先に廃し、その跡に開智小学校を建てました。このことは明治五年、学制発布以前に行なわれたとして、開智小学校は「小学校教育発祥の地」として教育史上重要なものとなります。
現在の全久院(松本)の敷地は瑞松寺廃寺跡で師範学校建設予定地だったものを筑摩県(当時)より買取り、大町の青柳寺を移築しました。当時は新たに寺院を創設することは禁止されていたため、苦肉の策だったのです。そして明治九年(1876年)五月再興開基仲間、共有台を結成し、明治十年(1877年)四月大本山総持寺貫主奕堂禅師を迎え開山とし、青龍山全久院と改め総持寺直末として正式に再建されました。この事をきっかけにその後、各宗の寺院の再建が始まりました。
明治二十九年(1896年)本堂は失火により消失。五世鈴木良音和尚の晋山式が行なわれた明治三十九年(1906年)六月、再建されました。しかし、僧堂、山門や鐘楼は再建されず現在に至りましたが、平成五年(1993年)に鐘楼付山門として改築されました。
仁王門
仁王門の裏側
拝殿
拝殿
包丁塚
馬頭観世音 身代地蔵
文殊菩薩
虚空蔵菩薩
千手観音菩薩
お堂
秋葉大権現
毘沙門天王
産土大明王
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