穂北神社のお参りの記録一覧
由緒
一ツ瀬川中流北涯に鎮座し、地内には千畑古墳(国史跡)茶臼原古墳群(国史跡)上穂北古墳(県史跡)などが散在する。
創立年月日は不詳であるが、古老の伝えるところによれば次のごとくである。
太古天津彦瓊瓊岐命笠狭の碕にご降臨された際、大山祇神の二女を妃とし長女である磐長姫命を寵愛しなかった。そのため姫命は笠狭の地を隔たること二十余丁、五十鈴川の川上に去り当地に鎮座された。この神殿には古来より神像と、姫命の御形見の神鏡が奉安されている。
当地を穂北と言うのは、木花開耶姫命が姉磐長姫命に稲穂を五十鈴川(現一ツ瀬川)に流して送ったところ、北岸に着いたことによるという。付近に姫命の山陵として五基の円墳があり、その最大なるものを磐長姫の山陵と伝えている。また一説には、西都原の男狭穂、女狭穂両古墳の北にあるからだともいう。
中世土持氏の領地であったが、建久年間伊東氏により亡ぼされてより伊東氏が領有するところとなり、本社を篤く尊信し、供田を寄進して奉祭した。天正五年(1577)伊東氏が没落し、代わって延岡藩主高橋氏の領有となり、更に慶長五年(1600)関ヶ原の乱により高橋氏敗れ、有馬直純延岡藩主となり、領有したが、供田の寄進は従来通り行われた。同年火災にあい御形見の神鏡・宝物・古書等皆焼失し、わずかに姫命の神像半体を存するのみである。天保六年(1835)三月六日再興され、その後天保十二年八月十五日、明治七年甲戌五月十六日、明治十二年己卯十月三十日と造営が行われた。明治維新の際村社穂北神社となり、同四十年二月、神饌幣帛料供進社に指定された。
明治四十三年五月、地内鎮座の鹿島神社、尾崎神社、二柱神社、北嶽神社、大年神社、香取神社、諏訪神社、山の神神社を合祀した。境内神社として五鈴神社がある。
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