いんじょうじ(せんぼんえんまどう)
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引接寺(千本ゑんま堂)のお参りの記録(2回目)
投稿日:2025年03月13日(木)
参拝:2025年2月吉日
京都市上京区にあるお寺です。
この辺りは北区と上京区の境目になっています。
引接寺には以前にもお参りしたことがありますが 前を通ったら無視するわけにはいきません。
しっかりお参りさせていただきました。
山門はないのですが 境内に入ると 左斜め上から閻魔様に睨まれます。
写真では反射して分かりにくいですが なかなかのお顔です。
「その油断火から炎へ災いへ」
んーーー人生のことなのか火災のことなのか。
本堂でご本尊を拝顔できなかったのですが お写真が貼られていますのでありがたいです。
御朱印をお願いしたところ 「そちらに座っておまちください。時間かかりますから。」 すごく丁寧に時間をかけて書いてくださいました。
この一言って 心に沁みますよね。「ありがたい」って思いますよね。
おみくじから一品物の念珠まで 授与品も多くあります。
紫式部の供養塔や像もあり ゆかりの地なのだと知りました。
山号は光明山 院号は歓喜院 宗旨は高野山真言宗 ご本尊は閻魔法王 創建は寛仁元年(1017年) 開基は定覚(小野篁とも) 中興年は文永10年(1273年) 中興は明善です。
ネット情報です。
そもそもは現世と冥土を行き来して 閻魔法王とも交流したという伝承のある小野篁(802年 – 853年)が 蓮台野の入口であるこの地に自ら閻魔法王の姿を刻んで祠を建立して祀ったのが当寺の始まりであるという。
その後 寛仁元年(1017年)に藤原道長の後援を得た恵心僧都源信の弟弟子・定覚により 「諸人化導引接仏道」の道場とすべく篁が建立した祠をもとに開山されたと伝える。
後に廃れたが 文永10年(1273年)に明善律師によって中興された。
天正2年(1574年)に織田信長が上杉謙信に贈ったと伝えられ 京の名所と町衆の姿を描いた国宝『洛中洛外図屏風』(米沢市上杉博物館蔵)の左隻右上に「千本ゑんま堂」が描かれている。
その境内では普賢象桜や十重石塔とともにゑんま堂狂言「閻魔庁」を演じている様子が描かれている。
この辺りは北区と上京区の境目になっています。
引接寺には以前にもお参りしたことがありますが 前を通ったら無視するわけにはいきません。
しっかりお参りさせていただきました。
山門はないのですが 境内に入ると 左斜め上から閻魔様に睨まれます。
写真では反射して分かりにくいですが なかなかのお顔です。
「その油断火から炎へ災いへ」
んーーー人生のことなのか火災のことなのか。
本堂でご本尊を拝顔できなかったのですが お写真が貼られていますのでありがたいです。
御朱印をお願いしたところ 「そちらに座っておまちください。時間かかりますから。」 すごく丁寧に時間をかけて書いてくださいました。
この一言って 心に沁みますよね。「ありがたい」って思いますよね。
おみくじから一品物の念珠まで 授与品も多くあります。
紫式部の供養塔や像もあり ゆかりの地なのだと知りました。
山号は光明山 院号は歓喜院 宗旨は高野山真言宗 ご本尊は閻魔法王 創建は寛仁元年(1017年) 開基は定覚(小野篁とも) 中興年は文永10年(1273年) 中興は明善です。
ネット情報です。
そもそもは現世と冥土を行き来して 閻魔法王とも交流したという伝承のある小野篁(802年 – 853年)が 蓮台野の入口であるこの地に自ら閻魔法王の姿を刻んで祠を建立して祀ったのが当寺の始まりであるという。
その後 寛仁元年(1017年)に藤原道長の後援を得た恵心僧都源信の弟弟子・定覚により 「諸人化導引接仏道」の道場とすべく篁が建立した祠をもとに開山されたと伝える。
後に廃れたが 文永10年(1273年)に明善律師によって中興された。
天正2年(1574年)に織田信長が上杉謙信に贈ったと伝えられ 京の名所と町衆の姿を描いた国宝『洛中洛外図屏風』(米沢市上杉博物館蔵)の左隻右上に「千本ゑんま堂」が描かれている。
その境内では普賢象桜や十重石塔とともにゑんま堂狂言「閻魔庁」を演じている様子が描かれている。
すてき
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引接寺(千本ゑんま堂)ではいただけません
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