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2026年03月20日(金) 22時17分 bysoo_cyan

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ご由緒
編集前
 今出川通沿い、般舟院前町の嘉楽中学校前に、「禁裏道場蹟」の大石碑が立つ。その北に、かつて、「般舟院)」、正式には「般舟三昧院」があった。近代以前は、「御黒戸四箇院」と呼ばれ、宮中の仏事を司る寺院四寺(ほかに廬山寺[上京区] 、二尊院[右京区] 、遣迎院[北区] )の一つになっていた。
 1464年(応仁・文明の乱の後とも)、第103代・後土御門天皇が即位後、二尊院の善空により菩薩大戒を受け、指月の里伏見殿に堂宇を建て勅願寺にした。当初は天台、真言、律、禅(浄土とも)の兼学だった。寺は歴代二尊院住持により兼帯される。般舟三昧法を修したことから寺号になる。第102代・後花園天皇(1428-1464)など四天皇の分骨所になる。
 天正年間(1573-1592)、豊臣秀吉の伏見築城に伴い、大歓喜寺旧地の現在地(千本今出川)に移る。その後も、禁裏道場として皇室歴代の尊牌を安置した。江戸時代に入り亡くなった歴代天皇は泉涌寺に葬られ、追善法要は当院で修された。
 神仏分離令後の廃仏毀釈時、太政官布告により、泉涌寺、般舟院以外での菊の紋章使用が禁じられている。しかし1876年、官令により、寺の維持に適性を欠いたとして、歴代皇室の尊位牌は泉涌寺に遷され、寺地は嘉楽小学校の校地になる。以後、宮内庁からの保護料下付も停止になる。かつて広大な境内を有した寺地も縮小を余儀なくされた。
 2011年11月、般舟院の土地と建物は競売により、他の法人に所有権が移り、仏像2体(重文)も他の寺院に遷された。
 2018年現在、西圓寺という単立の寺院となっている。
編集後
 今出川通沿い、般舟院前町の嘉楽中学校前に、「禁裏道場蹟」の大石碑が立つ。その北に、かつて、「般舟院)」、正式には「般舟三昧院」があった。
 般舟院は文明年間に後土御門天皇の勅願によって三鈷寺・二尊院の兼帯住持であった善空恵篤を招請して開山・創建された寺院で、その維持・経営は創建以後「浄土宗西山派」系の「門中」寺院(二尊院・遣迎院・三鈷寺など)の寺僧によって
なされていた。当該期の浄土宗西山派は、後土御門の熱い尊崇を受けたことで数々の寺院が再興されていたほか、天皇・女官への圓頓戒授戒など、宮中の浄土信仰も広がりをみせていたという。また般舟院は少なくとも十七世紀中葉以降は、四宗兼学(浄土・律・天台・真言)の道場として広く認知されており、二尊院・廬山寺・遣迎院と共に「四箇院」と称したまとまりを形成して、天皇・女院らの追善仏事へ勤仕することが確認できるようになる。
 般舟院は十六世紀末までは洛外伏見に寺地を有していたが、その後洛中に移転したとされる。近世の地誌類などは、この点を豊臣秀吉による伏見城建設とそれに伴う都市改造の影響を受けたものと説明している。しかして川上貢氏は、文禄四年(1595)に般舟院の移転工事が着工し、慶長四年(1599)以降に千本今出川へ新造されたことを指摘し、の背景には︑伏見城築城による影響というよりも般舟院がそれまで洛外の不便な地域に位置していたため、当該期の京都の都市改革に乗じて移転が図られたものと推測している。二尊院以下、廬山寺・三鈷寺・浄金剛院の四ヶ寺住持の連名で、荒廃している般舟院を「洛陽地へ移転させることが願い出されており、朝廷に宛てて発給された連署状の写しが残されている。文禄期の火災による炎上を契機に豊臣政権下で移転が図られ、それを継承した徳川家の援助を受けて、十七世紀初頭に上京西陣の地に伽藍が新造されて復興した。 
 十六世紀以来、般舟院と泉涌寺は天皇家の葬礼・仏事をめぐって対立の様相をみせる。弘治三年(1557)に死去した後奈良天皇の中陰法要は、三好政権の裁許により例外的に泉涌寺が差配したものの、その次の正親町天皇の中陰法要以後、十七世紀初頭にかけての天皇・女院の中陰法要はいずれも般舟院において執り行われた。
 宝永期の東山上皇の中陰法要では、両寺院において着座公卿の派遣を同格にすることが定められ、以後幕末に至るまで同様の形式が踏襲されることになる。
 1869年、太政官布告により、泉涌寺、般舟院以外での菊の紋章使用が禁じられている。
  1876年、官令により、寺の維持に適性を欠いたとして、歴代皇室の尊位牌は泉涌寺に遷された。寺地は嘉楽小学校の校地になる。以後、宮内庁からの保護料下付も停止になる。2011年、般舟院の土地と建物は競売により、他の法人に所有権が移り、廃寺となる。2018年に単立寺院である西圓寺として再建される。
Introduction